坂本龍馬の名言と年表!日本新婚旅行は龍馬が発祥だった?

武士が政治を行っていた時代から、再び天皇陛下を中心に政治を行った戦前へ続く時代への大転換期。

その時代の流れを作った立役者の一人が、今なおファンが絶えない坂本龍馬ですね。

 

龍馬には豪快で男気溢れるイメージもあり、僕も男として憧れる部分があります。

ここでは坂本龍馬の名言まとめと題して、主な功績や年表を交え、龍馬の人となりを紹介していきましょう。

 

 

坂本龍馬年表

坂本龍馬がこんなにも名を残した所以を知るべく、まずは主な功績2つを紹介します。

 

 

主な功績

龍馬が生き抜いた時代は、今私たちが暮らす日本の土台を築いた怒涛の時代。

その時代に残した龍馬の主な功績は、社会的な影響力と志の高さの両方を兼ね備えた時代のキーパーソンを嗅ぎ分ける嗅覚に長けていたことを象徴するような、「薩長同盟(さっちょうどうめい)」「大政奉還(たいせいほうかん)」ではないでしょうか。

 

 

薩長同盟

薩長同盟は、薩摩藩(さつまはん。現在の鹿児島県の辺り)と長州藩(ちょうしゅうはん。現在の山口県の辺り)による、互いに協力体制を作り維持することの約束です。

元々、薩摩藩と長州藩は政治的な考え方の違いから、武力をもって反発し合うほどに対立関係にありました。

 

しかし時はペリーの黒船来航をきっかけに、当時政権を握っていた江戸幕府が外国からの要求に一方的に応じるばかりで、交渉力が無いことがどんどん露呈していった時代。

薩摩はイギリスとの薩英戦争(さつえいせんそう)、長州はアメリカ、イギリス、オランダ、フランスの四国連合軍との下関戦争を経験し、外国の手強さを身をもって思い知ることになりました。

そして、「外国に対して軟弱すぎる今の幕府では日本の未来は無い。新しい日本を作らなければならない」と考えたのです。

 

当時薩摩は薩英戦争のあと、イギリスから最新兵器を買い付けるようになっており、軍事力を高めていましたが、一藩だけで幕府に太刀打ちするのはさすがに無理だろうと躊躇していました。

一方長州は、尊王攘夷(そんのうじょうい)を過激に推し進めたことが原因で幕府との関係がこじれており、倒幕に必要な軍事力を備えようにも当時外国から武器を買い付けるために必須だった幕府からの許可をもらえない状況にありました。

 

強国日本を作ることを志していた龍馬が、この両者の思惑と弱点を知り、薩摩と長州が互いに得をする商談をもちかけたのです。

それは、薩摩がイギリスから買い付けた武器を、長州が買い取るという取引の提案でした。

取引の結果、軍事力をつけた長州は倒幕に乗り出すことができるし、薩摩は取引先である長州が例え不利な立場になったとしても、いつでも味方でいると約束することで、互いに損はありませんよね。

 

二者の「外国と対等に渡り合える新しい日本を作りたい」という共通の志を読み取り、手を結ぶことを約束させた仕掛け人が坂本龍馬なのです。

互いに利益のある取引として話を持ちかけたところが、僕には龍馬の商人気質が表れた粋な計らいに思えます。

 

薩長同盟によって、江戸幕府が倒れることが現実味を帯びてきたといえるでしょう。

龍馬はまさに、現代へと続く新しい時代への流れを作ったのですね。

 

 

大政奉還

大政奉還は、第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が、政権を朝廷に返還し将軍職を辞退することを申し入れ、許可された出来事です。

この結果、鎌倉時代から約700年に渡った武士による政治の時代が終わり、近代まで続いた天皇陛下が政治の中心となる時代が再び始まったのです。

 

坂本龍馬がどの様に関わったかというと、大政奉還を立案し、進言したのです。

薩長同盟の立役者となり、倒幕の流れに加勢した龍馬がなぜ?と思われるかもしれません。

 

僕は、幕府の役人でありながら日本の為になることを追及した勝海舟(かつかいしゅう)の一番弟子とも言われた龍馬の考えとして、

「幕府の存続を支持しないことに変わりないけれど、外国からいつ攻撃されてもおかしくないこの時勢に、日本人同士が武力をもって傷つけ合う意味はあるだろうか。

できる限り血を流すことなく世の流れを変える方法はないだろうか。」

と知恵を絞ったのではないかと想像します。

 

そして考えた結果、大政奉還論についてまとめた政治綱領(せいじこうりょう)を書き上げ、出身地でもあり大きな力をもっていた土佐藩の藩士に提出し、これを藩政に携わっていた元藩主の山内容堂(やまうちようどう)が将軍慶喜に進言したのです。

慶喜が同意したことで大政奉還が実現し、近代日本が幕を開けることになりました。

 

 

年表

わずか32年のあいだに後世に残る偉業を成し遂げた坂本龍馬の人生を、時間の流れに沿って紹介していきましょう。

 

 

1835年、土佐藩(とさはん)の郷士(下級武士)の家に次男として誕生。

実家が営んでいた商売は順調で、裕福な家庭であり、5人兄姉のなかで育ちました。

 

幼少期の龍馬は、どの様な子どもだったのでしょうか。

実は大人になってからの颯爽としたイメージからは程遠く、気が弱くて近所の子どもたちからいじめられるような子どもだったそうです。

僕は思わず、泣きべそをかきながら兄や姉の背中に隠れる幼い龍馬を想像してしまって、一気に親近感が沸きました。

 

しかし「男たるもの、心身ともに丈夫に育って欲しい」というのが両親の願いでしょう。

1848年(12歳)、武術を学ぶため、日根野弁治(ひねのべんじ)の道場に入門し、約5年間をかけて「小栗流和兵法(おぐりりゅうやわらへいほう)」を修得しました。

 

一説には、柔術をメインに剣術の基礎を固めたといわれています。

この修行によって、龍馬のたくましい心身の基礎が固められることになったのですね。

 

 

そして1853年(17歳)、今度は剣術を修得するため、江戸に修行に行くことにします。
入門したのは、「北辰一刀流剣術(ほくしんいっとうりゅうけんじゅつ)」の桶町(おけまち)千葉道場でした。

この剣術の主な稽古は、竹刀と防具を用いて打ち込みをするもので、、、そうです、現在の剣道の基になったと言われるものです。

 

またちょうどこの頃、ペリーの艦隊が来航しました。

龍馬は、土佐藩の臨時御用として、警備に当たったといいます。

百聞は一見にしかずで、西洋がどれほど発展しているかを目の当たりにしたこの経験は、龍馬にとって衝撃的なものだったことは簡単に想像できますね。

 

日本の意向を無視した条件を突きつけられながら、交渉することもできず、ただただ従った幕府をみて、世論が攘夷(外国を悪として、その侵略を阻止しようとする考え)を掲げる中、龍馬はその流れに流されながらも、今の日本の国力に限界を感じていました。

かといって龍馬の知識では何かアイデアが浮かぶことも無く、出口の見えないトンネルに入ったような日々を過ごしたようです。

 

僕は、龍馬がここで世論に流されて攘夷を叫んで終わり、ではなくて国の未来のために自分に何ができるか真剣に考え何より、何かできるはずだという信念をもっていたことが、龍馬の強みであり偉人と呼ばれる素質なのではないかと思うのです。

自分事として、国の未来にまで責任を果たそうとする龍馬、かっこよすぎませんか。

 

 

黒船来航の翌年、剣術修行期間が満了となった龍馬は、土佐へ帰り、早速、当時の西洋事情について精通していた河田小龍(かわだりょうりゅう、しょうりょう)に教えを請いました。

西洋がどれほど発展しているか、どの様な思想をもっているか、などを具体的に知ることができたのです。

 

造詣が深い小龍の話に、龍馬はどんどん引き込まれました。

そして、西洋と対等な日本になるべく、国を豊かにするには、貿易によって富を得ることだと言う小龍の言葉に、自分の人生の目的を見出したのでした。

 

 

貿易を行うために必要となる、航海術を学ぶ一環にと考えたのでしょうか、1859年(23歳)、土佐藩の御持筒役(おんもちづつやく)を代々勤めていた、砲術家・徳弘孝蔵(とくひろこうぞう)に入門し、砲術を修得しました。

その2年後の1861年(25歳)、土佐藩で尊王攘夷を掲げた土佐勤皇党(とさきんのうとう)が結成され、龍馬も加盟したのです。

 

そして翌年、尊王攘夷の中心であった長州の久坂玄瑞(くさかげんずい)を訪れます。

そのとき、玄瑞が語った草莽崛起(そうもうくっき)の思想に、龍馬は感銘を受けました。

 

その思想とは、「志をもった人々が藩を超えて力を終結させ、新しい日本をつくっていこう」というものです。

このことがきっかけで、龍馬は土佐藩を脱藩したと言われています。

 

 

脱藩の後すぐの1862年(26歳)、龍馬は、幕府が尊皇攘夷運動の激化による争いごとを治めようと、政治総裁職に任命した松平春嶽(まつだいらしゅんがく)から紹介状を受け、のちに師と仰ぐことになる勝海舟のもとを訪れました。

 

当時、勝海舟は幕府軍艦奉行並という幕府の要職についており、弟子となった龍馬は海舟の軍艦操練所(ぐんかんそうれんじょ)の設立を手伝ったそうです。

そのなかで世界情勢や海軍についての見識を深めていったのでしょうね。

 

 

1864年(28歳)、外国の連合艦隊による下関砲撃の調停を勝海舟に命じられた龍馬は、長崎へ向かいました。

のちに結婚することになった、楢崎将作(ならざきしょうさく。侍医)の長女お龍と知り合ったのもこの頃といわれています。

気が強いことで有名だったお龍でしたが、龍馬とは気が合ったようで、二人は知り合ってわずか3ヶ月ほどで結婚を決めたようです。

 

その頃、勝海舟は尊王攘夷運動の中心であった長州討伐のために、幕府が結成した軍の要職についた西郷隆盛(さいごうたかもり)とひそかに接触をはかり、互いに強い信頼関係を築いたようです。

隆盛は海舟との会談を経て、長州討伐には反対することに考えを変えました。

 

師匠の海舟が西郷隆盛を非常に評価したため、龍馬も隆盛のことが気になり、海舟に紹介してもらい京都で西郷隆盛と初めて会うことになりました。

龍馬もまた、西郷隆盛の人間性に興味を引かれたようです。

 

 

1865年(29歳)、龍馬は長州で中心となって尊王攘夷を推し進めていた桂小五郎(かつらこごろう)と接触し、強い軍事力を備え、攘夷の思想もある薩摩と組むことで日本を変えられると、薩長和解を提案しました。

のちに海援隊と呼ばれた亀山社中(かめやましゃちゅう)を長崎に創業し、先に河田小龍から教えられたように、国の富を築くため貿易をはじめたのもこの頃です。

 

西郷隆盛にも薩長和解を説得し、1866年(30歳)、ついに薩長同盟が締結されました。

これは倒幕への動きが本格的になった歴史的なできごとだったわけですが、薩長の仲介をしたことで、龍馬は幕府を敵に回し命を狙われることとなってしまったのです。

 

薩長同盟からわずか数日後、京都で懇意にしていて妻お龍の身の隠し場所にも選んだ寺田屋で、龍馬は幕吏に襲われます。

これが寺田屋事件です。

このときはお龍の機転のお陰で、なんとか脱出することができました。

 

 

1867年(31歳)、亀山社中を土佐海援隊とし、隊長に就任しました。

その一方、元々「日本のために」という一心で人生を歩んできた龍馬は、勝海舟の弟子となったことで、さらにその思想を強めたのでしょう。

 

薩長同盟を仲介した一方で、海外情勢を考えると、国内で武力で争っている場合ではない、という危機感が募っていました。

そして知恵を絞った結果、戦わずとも政権を幕府が朝廷に返し、再び天皇を中心とした政治を行う組織を作り直すことで新しい強国日本を作っていこうと提案するに至ったのです。

 

その提案は土佐藩士で前藩主で藩政に携わっていた山内容堂に伝わり、容堂が当時の将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)に進言、慶喜が同意し、大政奉還が実現しました。

 

龍馬が無念にも暗殺されたのは、そのわずか半月後のことでした。

これは、近江屋事件と呼ばれていますが、その犯人はいまだ謎に包まれています。

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坂本龍馬の名言14選

坂本龍馬が太く短い人生のなかで残した言葉には、今の僕たちもはっとさせられるものが大いにあります。

ここでは、龍馬の名言の中から選りすぐりの14選を紹介しますね。

 

 

1.「時勢に応じて自分を変革せよ。」

怒涛の変化の時代を生き抜いた龍馬の言葉には、重みがあります。

自分の思い描く未来を作るためにも、時勢を読み自らも変化する勇気を持ちたいですね。

 

 

2.「万事、見にゃわからん。」

黒船の来航を見、長州に攻めてくる連合軍を見、自らも亀山社中を興して船に乗った、龍馬の経験からの言葉でしょう。

一番信じられるのは自分だ、という意味にも取れますね。

 

 

3.「偏見を持つな。

相手が幕臣であろうと乞食であろうと、教えを受けるべき人間なら俺は受ける。」

人の真価は肩書きや見た目で決まるものではないとの教えですね。

人にはそれぞれ秀でたところがあり、それを解っている人はやっぱり強いのです。

僕も、立場に関わらずいつ何時も素直に教えを乞える人でありたいと思います。

 

 

4.「俺は落胆するよりも、次の策を考えるほうの人間だ。」

「日本を強国にする」という志を達成するために、龍馬にはやりたいことややるべきことが山のようにあったのでしょう。

ひとつが思い通りに進まなかったからといって、一々くよくよしている暇はなかったのですね。

 

そして「時間が有限」というのは、誰しもに平等な条件でもあります。

落胆するほうの人間にはなりたくないですよね。

 

 

5.「何の志も無きところに、ぐずぐずして日を送るは、実に大馬鹿者なり。」

龍馬が人生をかけて礎を築いてくれた今の日本。

そこに生きる僕たちは、龍馬に「大馬鹿者!」と喝を入れさせない生き方をしなければと、改めて身の引き締まる思いがします。

 

 

6.「疲れちょると思案がどうしても滅入る。

よう寝足ると猛然と自信が湧く。」

ともすると龍馬は、毎日活力に溢れ、全力投球で、まるで鉄人だったのではと想像してしまいますが、コンディションによってモチベーションが影響されることがあったのだということに、安堵した僕がいました。

モチベーションを保つためにもコンディションは大事、ということで、たまには自分を労わってあげましょうね。

 

 

7.「人間というものは、いかなる場合でも、好きな道、得手の道を捨ててはならぬ」

一説には、「明治政府に入るのではなく、世界の海援隊になりたい」と語ったという龍馬らしさが感じられます。

志を成し遂げるために、好きなこと、得意なことは必ず役に立つし、それを活かしてこそより大きな成果を挙げられることを教えられる一言ですね。

 

 

8.「俺は、着実に物事をひとつずつ築き上げていく。

現実に合わぬことはやらぬ。」

龍馬が後世に残る偉業を残すことができたのは、コツコツ努力したからで、しかも、その努力は報われるものだけを積み重ねたからだ、ということですね。

 

僕もこれ、とても重要なことだと思うのです。

「やみくもに努力する」のではなくて、「報われる努力をする」ということ。

ぜひ、意識していきたいと思います。

 

 

9.「恥ということを打ち捨てて、世のことは成るべし」

「恥」というのはあくまでも個人的な感情であって、世の中の成り立ちの上では意味を持たない、といったところでしょうか。

自分が思うより、案外、人は気にしていないものです。

「恥」という概念から自由になって、世の中のためになる行動をとりましょう。

 

 

10.「夢中で日を過ごしておれば、いつかはわかる時が来る」

がむしゃらに何かをやり続けた結果、初めて見える景色がある、という経験ありませんか。

趣味でも楽器でも、受験勉強でも、仕事でも子育てでも一生懸命に向き合い続けることで、新たに気づくことがあったり、そのときは理解できなかった大先輩の言葉の意味が段々わかるようになる、といったことです。

 

僕には、龍馬が「一度に全てが解らなくても未来は来るから大丈夫だと励ましてくれているようにも思えます。

 

 

11.「事は十中八九まで自らこれを行い、残り一二を他に譲りて功をなさんべし」

薩長同盟や大政奉還という歴史的なできごとを水面下で支えた龍馬の美学が表れているのではないでしょうか。

自分が思い描くように事を運ぶには、自ら行動することと、影響力のある人を見極めて立てることが重要だと教えられますね。

 

 

12.「人の世に道はひとつということはない。

道は百も千も万もある。」

「ひとつの方法がだめなら、他の方法を試していけば、いつかはよい方法が見つかる」と迷える僕たちを導いてくれるような、龍馬の力強い言葉ですね。

 

 

13.「俺は議論はしない。

議論に勝っても、人の生き方は変えられぬ。」

仮に論理的に相手を降参させたとしても、相手の考え方まで変えることはできない。

人を動かすことができるのはその本人の意識が改革されるしかない、ということではないでしょうか。

 

僕には、「まずは相手との信頼関係を結ぶことが重要だ」と龍馬が教えているように思えます。

 

 

14.「世の人は我を何とも言わば言え。

我が成すことは、我のみぞ知る。」

「他人がなんと言おうと、自分のことを一番解っているのは自分だし、そうあるべきだ」という龍馬の哲学が感じられます。

SNSが発達した現代に生きる僕たちは、人からの評価が異常に身近になっている節がありますが、気にしすぎることなく、ましてや人の評価に自分の志を曲げるようなことなく、自分の選んだ道を堂々と進んでいきたいものですね。

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坂本龍馬の逸話

坂本龍馬には、数々の逸話も残されています。

さっそく紹介していきましょう。

 

 

名前の由来

龍馬が生まれる前の晩のこと。

母親の夢に、天に昇る龍が現れました。

 

そして、生まれたのは男の子でした。

背中の体毛が濃い目だったのでしょう、馬のたてがみの様に見えたことから、龍馬と名付けられたそうです。

 

 

船中八策

大政奉還を山内容堂に提案するために、長崎から船での移動中、龍馬は大政奉還が成された後の新国家体制の基本方針について、案を述べたと言われています。

これを、海援隊士が文字に起こしたものが、「船中八策」と呼ばれています。

 

この草案の立案者には諸説あるのですが、僕には龍馬がいよいよ強国日本を築いていく道が開けてきて、わくわくしながら新政府の構想を練っている様子が思い浮かぶのです。

 

 

新婚旅行文化の起源

今では「結納、入籍、結婚式」とセットで予定されることが多い新婚旅行ですが、日本で初めて新婚旅行を行ったのは坂本龍馬だといわれています。

西洋の文化を知りいち早く取り入れる流行感度の高さも、龍馬がわずかな期間で偉業を成し遂げた理由かもしれません。

 

 

留魂

明治37年2月、日本軍が勝利を収めた日露戦争が、始まる直前のできごとです。

当時の皇后陛下の夢に坂本龍馬が登場し、日露戦争がはじまろうとしている時勢ということ、そして自らの魂が愛国心に満ちた海軍とともに戦い貫く決意を伝えた、と言われています。

 

僕には、日本の未来のために生涯を捧げた龍馬の魂は、きっと今も日本の行く末を見守っていると思えてなりません。

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坂本龍馬まとめ

幼い頃は気弱でいじめられっ子だったといわれる坂本龍馬は、柔術、剣術を学び、一端の青年に成長しました。

そんな折、黒船の来航という一大事を目の当たりにし、龍馬は、日本を強くすることこそが自らの志だと気づいていきます。

僕はその姿に、志のもつパワーと、人はいつでも成りたい自分になる可能性を秘めている、という希望を感じました。

 

龍馬はわずか32年の生涯で、薩長同盟や大政奉還に代表される功績を残し、武家政治の時代から天皇主権の時代へと国家の体制を大きく変える原動力だったと言えるでしょう。

その結果、先進国の一員として国際社会で期待される役割のある、今の日本の礎が築かれたのです。

 

それは、龍馬の人一倍の志の高さと、愛国心、行動力、そして龍馬だけの力ではなく築き上げた人脈があってこそのことだと思います。

志の高い人の下には、同じく強い信念をもった同志が集まるというのは世の常ですよね。

 

念願だった新政府を見ることなく暗殺されてしまった龍馬ですが、龍馬の銅像は出身地の高知・桂浜だけでなく、所縁のある長崎や鹿児島にも建てられ、訪れるファンは後を絶ちません。

その魂は今も、よりよい未来のため、日本のため、世界のために、夢中で行動している人びとを護ってくれているのかもしれませんね。

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