板垣退助の名言まとめ!ひげやルイヴィトン等の逸話も紹介!

板垣退助って、明治時代の政治家…くらいしか知らない。

そんな人も多いのではないでしょうか。

 

でも、彼も幕末の志士だったんですよ。

ちょんまげを結って、カミシモを着ていたのです。

 

でも、やはり彼の一番の功績は

「自由民権運動」と言えます。

 

ということで今回は、幕末の志士がどういういきさつで自由民権運動を起こすようになったのか。

それを彼の生い立ちや名言を元にお伝えしていこうと思います。

 

これを知ったら「政治は難しいから興味ない」

というあなたも、ちょっと考えが変わるかもしれませんよ。

 

 

目次

板垣退助とは?

では、まず彼の人生を幼少期から順にお伝えしていきますね。

 

 

幼少期の活躍

彼は1837年(天保8年)に土佐(現在の高知県)に生まれました。

彼の父親は、乾正成(いぬいまさしげ)という土佐藩の上士でした。

上士というのは、当時の土佐藩の中では位の高い武士で、裕福な家庭のことです。

 

あれ?父親の名字は板垣じゃないですね。

そう、生まれた時の板垣の名前は、乾猪之助(いぬいいのすけ)と言います。

この頃の人たちは、成人するまでに名前が変わることは珍しいことではなかったのです。

 

 

さて、のちの板垣退助であるこの猪之助少年は、かなりの個性があったようです。

名前の通りになったのかと思うほど、突進することが得意とでもいいましょうか。

 

けんか大好き少年で、かなりの暴れん坊だったといいます。

きっとこの頃から正義感が強かったのでしょう。

 

また、猪之助少年の母親も女丈夫な人でしたので、彼のけんかに対しては

「けんかには負けるな。ただし弱い相手とはけんかするな」

と言っていたようです。

 

当時は、けんかも遊びの内だったのでしょう。

藩内にグループを作って、それぞれが敵対して始終けんかが行われていたといいます。

 

しかしそんな中で彼は、上士ではない仲間たちとも連携し、身分の違いに頓着しなくなったのだと思います。

時には、上士より位の高い相手をやっつけて、お仕置きを受けたこともあったようですが…

 

そんな少年も土佐藩士として成長し、役職をもらうようにもなりました。

その中で彼は、中岡慎太郎、後藤象二郎などと親交を深めるようになっていきます。

 

 

幕末での活躍

板垣が青年になった頃の土佐藩では、尊王攘夷に動く若者が多く出ています。

尊王攘夷とは、政治を「幕府ではなく朝廷が治めるべきだ」という考え方です。

坂本龍馬や中岡慎太郎、武市半平太などが有名どころですね。

 

そんな中、藩幹部はもう少し穏やかな公武合体論を打ち立てていました。

公武合体論は、攘夷論よりも穏やかで「幕府と朝廷が手を組んで政治を運営する」という考え方です。

しかし、もともとけんかっ早い板垣にとって、この考え方は受け入れられるものではありませんでした。

そこで、彼は武力で倒幕しようと考えます。

 

彼の行動は素早いものでした。

彼と同じように考えている薩摩藩と手を組むことを考えたのです。

 

そうして彼は、薩摩藩の要人であった西郷隆盛と1867年(慶応3年)薩土密約(さっとみつやく)という同盟を結びました。

これは、いざ倒幕の時期が来たら一緒に戦おうという約束ですね。

 

 

やがて、江戸城は開城。幕府政治はなくなりました。

しかし、政権が朝廷に移ってからも、旧幕府軍は地域ごとに反抗を続けていました。

この旧幕府軍と新政府軍の衝突が、いわゆる戊辰戦争(ぼしんせんそう)といわれるものです。

ここで板垣は、新政府軍の軍師として大活躍を収めています。

 

実は、彼の板垣への改名はこの時行われました。

それは、彼の先祖が武田信玄の部下である板垣氏だったからだといいます。

自分のことを、有名な武田信玄と近しい人だと伝えた方が民衆に好感を持たれると思ったようです。

 

民衆を味方にするのが大切だと、よくわかっていたのですね。

こうして、板垣は戊辰戦争で活躍し、新政府で要職を得、発言権を強くすることができるようになりました。

 

 

この頃、新政府は外交についても問題をいくつか抱えていました。

特に朝鮮とは関係があまり良くなく、政府は困っていたのです。

 

そこで、板垣が提案したのが「征韓論」でした。

これは、日本が朝鮮に内政干渉をして、配下に入れようということです。

けんか好きで戊辰戦争にも勝利した板垣には、それが簡単にできると思えたのでしょうか。

 

しかし結局、政府内では板垣の意見は却下されてしまいます、

ここで板垣は、政府に落胆。

政府の職を辞してしまいます。

でも、彼は政治活動をやめたわけではありませんでした。

 

 

自由民権運動で活躍

さあいよいよ、彼のオハコの自由民権運動の時代になりましたよ。

1874年(明治7年)、板垣は故郷の土佐(高知県)にもどり、有志と共に「立志社(りっししゃ)」という政治結社を立ち上げます。

 

幕府から移行した明治政府では、薩摩や長州、土佐などの藩士が政治をまとめていました。

しかし、これも結局お役人がお役人だけで話し合うものです。

なので、民衆を大切にすべきと考えていた板垣は、そのことに違和感を感じていたのですね。

 

「これからは、もっと民衆、つまり国民の声を政治に反映させなければならない!」

こう考えた板垣は、立志社を立ち上げた年にさっそく政府に

「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」

を提出したのでした。

 

これは「選挙で選んだ国民を集めて、国会を開こう」という意見書です。

彼の自由民権運動は、この行為を発端に始まったといわれています。

 

でも、建白書はすぐに政府に受け入れられるものではありません

そのことを良くわかっていた板垣は、国民にこのことを知ってもらわなければと考えます。

 

自由党を創立

建白書を国民の周知とするために、立志社を全国規模に拡大した「愛国社」を作ります。

さらに板垣は、政府内に復帰したことを機に、日本初の政党「自由党」を作ったのでした。

この頃は、世論も国会開催の意見に傾いており、政府もついに10年後に国会を開くことに決めました。

 

 

しかし、中にはこれに反対する国民もいたのです。

板垣はある時、遊説先の岐阜県でこうした人に襲われたことがあります。

この時に彼が発した有名な言葉があるのですが、それは名言のところでご紹介しますね。

 

でもこの時、板垣はその犯人を憎むことはしませんでした

「それも意見のひとつ」と受け取ったのです。

反対意見も大切な意見とわかっていたのですね。

 

 

この頃の板垣は、政治を変えるのは武力ではなく言葉の力だと考えるようになっていたのです。

だから、議論を重ねれば必ず道は開けると思っていました。

 

でも実際には、国会を切望する国民を弾圧する動きも出てくるようになりました。

これは自由民権運動に対する弾圧ですね。

 

そこでまた、その力に抵抗して事件をおこす人々が現れました。

これでは幕末で争いが頻発していた頃と同じです。

そこで板垣は、自由党を解散することにしました。

 

 

それでも1890年(明治23年)には初の総選挙が行われ、国会は開催されたのです。

板垣はこれに際して、再び「立憲自由党」という政党を立ち上げ、政府に挑むようになりました。

 

またこの時、立憲自由党に触発されて、方針を異にする政党が次々に生まれたのです。

これが政党政治の始まりになったわけですね。

 

 

こうして政治の場で活躍してきた板垣でしたが、自由民権運動は実を結び、彼は使命が終わったと感じたのでしょう。

板垣は、国会の開催から10年後の1900年(明治33年)に政界を引退してしまいました。

 

板垣退助の人生をざっとスクロールしてきましたが、彼の功績はよくお判りいただけましたでしょうか?

でも、政治家っていうとやはりお堅いイメージがありますよね。

 

でも板垣は、わんぱく小僧でしたので、決して堅いだけではありません。

彼の名言は厳しいようですが、芯の通った気持ちよさが感じられます。

そんな名言を集めましたので、ご覧下さい。

 

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板垣退助の名言11選

【1】「板垣死すとも自由は死なず」

この言葉はあまりにも有名ですよね。

でもこれは、実際に板垣がこの通りに叫んだわけではなさそうです。

実際には「痛いから早く医者を!」と言った…

本当は痛くて何も言っていない…

なんていろいろな憶測ともとれる意見があります(^^;)

 

でも大意としては「俺を殺したところで、自由は失われやしない」みたいなことですよね。

これは、板垣の活動姿勢から、こう思っている人が多かったということではないでしょうか。

 

またこの話には続きがあって、彼が暴漢に襲われた時の言葉ということで、「板垣はここで亡くなった」と誤解されている方も少なからずおられるようです。

 

現実ではこの時の板垣、少年の頃から体得していた柔術で身を守ったので、ケガだけで済んでいるのです。

武器を使わない柔術、かっこいいですよね。

 

 

【2】「私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ」

これは、板垣を襲った犯人の相原尚褧(あいはらしょうけい)に言った言葉です。

相原は板垣襲撃後、捕えられて刑に服していました。

しかし、大日本帝国憲法発布の恩赦で出所できたのですね。

 

彼はこの恩赦が、板垣の計らいによるものだと知り、板垣の元へ訪ねて来たのです。

その時、恩赦の礼を伝えた相原に、板垣がこう伝えたと言われています。

あくまでもカッコイイ板垣さんです。

 

 

【3】「自由とは天地自然の普遍的な原理であり、人は自由によって生まれ、国はそれによって存立するものである」

これも、相原に言った言葉とされています。

 

生まれながらに人が持っている自由は、誰もが保証されるべきもの。

自由を奪われた国民のいる国は亡びる運命にあるのもです。

これって世界中の歴史を見てもわかりますよね。

 

 

【4】「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、政府として当然の義務である」

板垣が「征韓論」を推す理由を述べたものです。

ものはいいよう。

 

「保護」とか言ってますけど、侵略みたいなものですよね。

自由を謳う板垣さんにしては、危険な思惑だったと思います。

 

 

【5】「君達とは今まで友達であり、仲間であったが、今日から俺は大隊を指揮する司令官となった。

軍規は厳しいから覚悟しておけ」

板垣が、戊辰戦争で新政府軍を率いる時に兵士に対して言った言葉です。

意気込みが伝わる言葉に、兵士も身が引き締まったことでしょう。

 

 

【6】「豪放不埒、是れ龍馬の特質なり。到底吏人たるべからず」

当時、やりたい放題の坂本龍馬の処遇を決める時、板垣はこう言って龍馬を庇護したといいます。

しかし、同じ土佐藩士でありながら、板垣と龍馬は面識はなかったのでと言われているのです。

 

ただ、龍馬と親しい中岡慎太郎とは親交があったので、彼の人柄は知っていたのでしょう。

そこで、龍馬を庇ったというところは、国を思って行動する龍馬は、縛られるべきではないと思ったのかもしれませんね。

 

 

【7】「前途なお遠し、喜ぶなかれ」

これは、いよいよ国会が10年後に開かれると政府からの発表があった時の言葉です。

国会開催に奔走した板垣でしたが、この時はまだ政府のことを信用していなかったようです。

 

彼は、政府が自由民権運動をそれまでに潰すための時間稼ぎかもしれないと思っていました。

それで、こんな文面を電報で同士に伝えたと言われています。

 

 

【8】「自由は土佐の山間(やまあい)より」

板垣は、征韓論が認められずに政府から身を引いた後、出身地の高知で立志社を立ち上げました。

この言葉は、その立志社の機関紙の第一ページに書かれました。

 

このキャッチコピーは高知の人々に愛されたようです。

やがて石碑にもなり、今では高知のお酒の名前にもなっているそうです。

 

 

【9】「政府は厳しい税金を取りながら、その使い道はわれわれ国民に知らされず。

政府の独断で事が進む」

自由民権運動での演説の言葉といわれています。

板垣は、誰にでもわかりやすいように話すことを心掛けていたそうです。

でも、この言葉…今でもあまり変わりがないような気が…

 

 

【10】「臆病と言われても良い」

これは、西南戦争が始まった時の言葉です。

西南戦争は、新政府転覆を謀る人物が西郷隆盛を担いで始めた戦争です。

 

板垣は西郷とは親交が深い間柄でしたが、ここで板垣が西郷に加勢すると、新政府が危機に陥ることになります。

そこで、板垣はこのセリフを言って西郷に加勢することを諦めたのです。

歴史は残酷ですね。

 

 

【11】「人は言う、死してのちやむと。しかしわたしは死んでもやめない。

なんも功績のないわたしの墓は、茫々と伸びた秋草のなかに埋没させてもらいたい。

自由を叫ぶ天下の志士が、わびしいわたしの墓標の前で

慷慨(こうがい)の心をかきたててくれたら、わたしは満足だ」

これは、板垣が初めて作った自由党を解散する時にした演説の中の言葉です。

ここでいう「慷慨」は、自由を押さえつける力に対する義憤の心のことですね。

 

いつでも、彼の胸には「自由は死なず」という一文があったのでしょう。

でも、このあとも板垣は、精力的に公平な世の中を作ろうとしました。

この真剣さ、今の為政者はどのくらい持っているのかな?

 

ここまで板垣の名言をご紹介しましたが、いかにも自由の志士という感じですよね。

でも、板垣の凄いのはこれだけでありません。

彼の逸話を知ると、彼の人間味に触れられて楽しくなってくるんです。

では、その楽しい板垣退助の逸話をご覧ください。

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板垣退助の逸話

確かめる少年

板垣少年(当時は猪之助)はやんちゃでしたが、考える力がありました。

ある時、ガマガエルの油を塗ると水の中でも息ができるという話を聞いた猪之助。

ガマガエルを捕まえて、煮込みました(うわー)。

 

そうして煮だした脂を体に塗って川に入り、噂が本当かどうか試したというのです。

それで彼は、ガマの油は迷信だと確信したとか。

 

さらには、お守りを粗末にすると罰が当たるという話も確かめました。

お守りをトイレに捨てて、罰が当たるかどうか実験したといいます。

猪之助少年はきっと理系だったんでしょうね。

 

 

ガキ大将でも慈悲の心

そんなびっくりな猪之助少年ですが、彼には別の顔もありました。

ある時、彼の家に貧しい女の人が彼の家を訪ねてきました。

その女の人は、貧しさから物乞いに来たのです。

 

そこで猪之助少年、おにぎりを上げた後、着物を持って来てその人に着せてやりました

でもそれは、お姉さんのお気に入りの着物だったのですね。

そのあと、猪之助のお姉さんが激怒したのは言うまでもありません。

 

でも、そこでお母さん登場。

「気の毒な人に着物を上げる行為はすばらしいことです」

と、猪之助の行為を大いに褒めたといいます。

 

 

またある時は、当時ではなかなか手に入らないお菓子を、彼はお母さんにねだりました。

そこで母親は、お菓子を買ってきて猪之助に与えます。

 

すると彼は、自分は食べずに、友達に全部ふるまってしまったというのです。

それを見たお母さんはまた「この子は大物になるに違いない」

と思ったといいます。

彼のこの慈悲の心は、実は晩年まで続いていたのです。

 

 

娘の名は…

板垣退助という人は、実は4回も結婚しています。

当時活躍した偉人がほとんどそうのように、お妾さんも複数人持っていました。

なので、子どもも5男5女もうけています。

 

その中でもすごいのが、長女と次女の名づけ。

長女は「兵」

次女は「軍」

 

女の子にですよ。

もうキラキラネームを超えていますよね。

よく奥さんも承知したものです。

でも、板垣のことですから、「女の子でも強くあれ」と願って名付けたのかもしれませんね。

 

 

大地震で大活躍

板垣が19歳の時に、安政の大地震が起こりました。

当時、江戸の土佐藩邸内に駐屯していた板垣は、揺れが収まったのち、避難をしようとしました。

 

しかし、そこで彼は前の年に土佐であった地震のことを思い出したのです。

その地震では、家屋が倒れたところに屋内の火が燃え移り大火事が出たことがあったのです。

 

そこで板垣は、仲間に屋敷内の火を全部消すように呼びかけ、消火をしてから避難をしたと言います。

そのおかげで、土佐藩の屋敷は火災を免れたということです。

 

前の経験を思い出せるところがすごいですよね。

これはおまけですが、避難訓練はできるだけ参加しておきましょう。

 

ルイヴィトンを買った初めての日本人!

板垣には、日本人として初めてしたことがあります。

それは、ルイヴィトンの鞄を買った!

ということです。

 

 

彼は、1882年(明治15年)に後藤象二郎と共にフランスに渡っています。

その時に、彼らはルイヴィトンのトランクを求めたとのこと。

 

近年までは、後藤象二郎が日本人で一番初めにルイヴィトンを買ったと思われていました。

でも、板垣の方が、数日早く購入していることが確認されたことで、一番は板垣になったのです。

きっと板垣が買ったトランクを見て、後藤が「いいなあ、俺も欲しい」と思って後から買ったんでしょうね。

 

 

自由民権運動に私財が尽きるほど投資

今でも政治活動は、お金がかかるといいますね。

それは、自由民権運動も同じだったようです。

 

板垣の生家、乾家は土佐の上士の家として、裕福な生活をしていたといいます。

その財産を受け継いだ板垣ですから、決して貧乏というわけではありませんでした。

 

しかし、自由民権運動では各地で遊説したり、機関誌を出すなどして大変なお金がかかりました

そこで板垣は、私財を投じて活動を続けたのですが、ついにそれも底をついてきたのでしょう。

 

ある時、彼は人に頼んで、戊辰戦争の折に褒美として賜った刀剣を、実業家の杉山 茂丸に売ろうとしたのです。

そこで杉山は、これを売ろうとまでしている板垣の窮状を知り、朝廷に働きかけて板垣が援助を受けられるようにしたといいます。

 

おまけをいうと、この杉山茂丸という人、政界の黒幕なんて噂もあるそうです。

明治維新ではさまざまな人が活躍した、ということですね(^^;)

 

 

板垣退助のヒゲの知られざる効果

板垣のトレードマークでもあるヒゲ。

肖像画や写真でも、あのヒゲはよく見ると硬そうで、とても自由に生えているように感じます。

 

なんと、このヒゲが貢献しているところがあるというのです。

それは、お札

彼は100円硬化が出される前まで、100円紙幣に描かれていました。

そこでは彼のヒゲも細かく描かれているんですね。

 

その自由に伸びているヒゲが、ニセ札を作りにくくしている

そんな効果があったというのです。

 

100円札があった時代は、今のように簡単にコピーのできる技術はありませんでしたからね。

大正まで生きた板垣でしたが、自分の死後、そんなことで活躍できるなんて想像もしなかったでしょう。

 

では、政界を引退した後の板垣どんな余生を過ごしたのか…。

けんか好きな彼のことです、政治の土俵以外でも活躍したのでしょうか。

それもお伝えしておきますね。

 

 

板垣退助の最期

板垣の晩年は、青年期や壮年期のそれとは違い、穏やかなものだったと言われています。

彼は、その昔武器を持ったその手でペンを持つようになりました。

引退と同時に「自由党史」という本の編纂を始めたのです。

 

また、彼はボランティアに力を入れていたといいます。

恵まれない人の就労を支援したり、罪を犯した女性の子どもを守る活動もしたとのこと。

 

でも、それらはあまり広く知られることはありませんでした。

彼はそういうことを宣伝するでもなく、穏やかに過ごすことに努めていたようです。

 

また、政界で活躍した時にもらった爵位まで返上しているのです。

功績をいつまでも鼻にかけることは、カッコ悪いことだとわかっていたのですね。

 

そんな穏やかな中、自由党史をまとめ上げた後、彼は穏やかに死を迎えたと言います。

死因は心臓衰弱のようですので、老衰といえるかもしれません。

それは1919年(大正8年)7月16日板垣退助83歳のことでした。

 

 

さいごに

さて、板垣退助の人柄がこれでよく解っていただけたのではないでしょうか。

 

幕末に活躍した人の中には、身分の低い人も多くいました。

その中でも板垣退助は身分は高い方でした。

でも、彼は子どもの頃に身分を超えた友達付き合いをしていたおかげで、差別の心を持つことにならなかったのですね。

肝心なのは生まれではなく、その意気込み、姿勢にあるとわかっていたようです。

 

しかし、若いうちはまだまだその正義感は、独りよがりなところもありました。

征韓論を打ち立てた頃は、そんなところが出てしまったのでしょう。

 

でも、彼は国民の声を聞くべきだという自由民権運動では、その正義を貫きました。

本当の正義というものは、公平な心があってこそなのですね。

 

こうした仕事を行った板垣は「庶民派」とも呼ばれています。

それは、お札の肖像に使われた紙幣にも見て取れますよね。

板垣退助の肖像は、1000円札よりうんと広く使われる100円札に描かれていたんですから。

そして最後は消えるように世を去った板垣、立派な政治家だったことにまちがいはないでしょう。

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