こんにちは、真一です。
いきなりですが、こんな人、まわりにいませんか?
別に頼まれてもいないのに、無理して筋トレをして体を鍛えたり。
そんなに必要ないのに、お金を持とう持とうと頑張りすぎたり。
てか、やたらとマウントとってきたり自慢してきたり、しょうもない。
実はこれ、根っこをたどると「自分には価値がない」という感覚を抱えているからだったりするんですね。
どういうことかというと、僕たちはついつい、
「〇〇がある自分には、価値がある」 「〇〇がない自分には、価値がない」
なんて、思ってしまうわけです。
たとえば、友だちが多い自分には価値があって、友だちが少ない自分には価値がない、みたいに。
実際に価値があるかどうかは、いったん置いておきます。
でも、こんなふうに「条件付きの価値」で生きている人って、たっっっくさんいますよね。
かくいう僕も、その一人でして……。
というわけで今回は、僕自身に最近起きた出来事をきっかけに、
「そもそも、人の価値ってなんなんだ?」
というところまで、釈迦の教えも借りながら、とことん掘り下げてみたいと思います。
これ、最後まで読んでもらえると、肩の荷がスッと軽くなると思いますよ。
それでは、いってみましょう。
■ ある日、SNSで「羨ましいな」と思ったんです
近頃ですね、僕は「不妊症でつらい思いをしている女性」のことを、ずっと考えているんです。
よく聞くのが、SNSで流れてくる友人の妊娠・出産報告を、素直に喜べない、という話。
そして、そう思ってしまう自分を、責めてしまう。
その気持ち、よくわかります。
わかるんですが……でも、僕は男です。
「だからこそ、もっとちゃんと分かるようになりたい。」そう思っていたんですね。
そんなある日のことです。
SNSを見ていたら、楽しそうに旅行している友だちが流れてきました。
まあ、いつものことなんですが、この時はなぜか、
(あれ、羨ましいな) (というか、ちょっと不快だな)
と思ったんです。
(おや?ひとを羨ましがるなんて珍しい)
で、思いました。
(この「羨ましい」って、一体なんのためなんだ?)と。
そしてその瞬間、ピンときたんですね。
(待てよ。これってもしかして、僕が知りたかった「不妊症でつらい思いをしている女性」と、同じ心理構造じゃないか?)
(知りたい知りたいと思っていたから、僕の脳が、わざわざこの感情を出してくれたのかもしれない)
そう思ったら、これはチャンスです。
なので、この「羨ましい」という感情を、とことん因数分解してみることにしました。
■ 出てきた答えは「稼げてない自分はダメだ」でした
そもそも、なんで旅行を楽しんでる友人を見て、「羨ましい」なんて思うんでしょうね。
僕のどんな傷が、刺激されているんでしょうか?
で、自分の内側をのぞいてみたんです。
そしたら、出てきました。
(ああ、そうか。最近、以前ほど稼げてないからだ)
(稼げてない今の自分は、ダメだと思ってるんだ)
(稼げない=価値がない、って、心のどこかで思ってるわけだ)
これでした。しょうもない。
楽しそうに旅行する友人を見て、稼げていない自分が浮かび上がって、それで「羨ましい」が出てきていたんですね。
■ 不妊症の女性とまったく同じ構造
ここで、ハッとしました。
(これって、僕がずっと考えていた、不妊症でつらい思いをしている女性と、まったく同じ構造じゃないか?!)、と。
よく聞きますよね。
子供を産めない自分は、女としての価値がない。
そんなふうに、思ってしまう、と。
「稼げない=価値がない」も、「産めない=価値がない」も、まったく同じ。
※もちろん、不妊症の方のほうがつらい思いをしてるのは承知してますが、構造として同じという意味です。
「〇〇できない自分には、価値がない」という、あの条件付きの価値の話です。
構造は、ぴったり重なります。
■ ここで「価値あるよ俺!」をやると、後で自滅します
さて、ここからが大事なところです。
もちろん、実際のところ、そんなことはありません。
子供を産めなくたって、女性としての価値は、ちゃんとあります。
僕だって、稼ぎとは関係ないところで、いろんな価値があるんでしょう。
でもですね、ここでやっちゃいけないことがあるんです。
それは、無価値感を抱えている自分を、なかったことにすること。
「いやいや、無価値なんかじゃないよ!」
「俺には価値があるよ!」
って、ポジティブシンキングよろしく、フタをしちゃうこと。
これ、やりがちなんですが、悪手です。
一瞬は気分がよくなるんですが、あとで必ず自己破壊が起きます。
なぜなら、奥底では「無価値だ」と感じている自分が、無視されて、置いてけぼりにされてるからです。
じゃあ、どうするか?
責めなければいいんです。
「無価値な自分」を、責めない。
別に、無価値でもいいじゃないですか。
無価値な自分じゃダメですか?
というか、「無価値な自分、最高だな!」くらいに思えると、内側の自分を、まるごと肯定できる。
ここまでこれると、自己破壊なんて、起きようがないんですね。
■ じゃあ「無価値な自分」のメリット、考えてみましょう
そこで僕は、考えてみました。
「無価値な自分」には、一体どんなメリットがあるんだろう、と。
で、考えてみると、これが面白いくらい、ポンポン出てくるんですよ。
(そもそも自分は無価値なんだから、無理して価値のある行動をしようとしなくていいな)
(だったら、自分の好きなこと、やりたいことだけ、やればいいや)
(好きでやるんだから、人様の評価とか、売れる売れないとか、気にせず仕事ができるな。こりゃあいい)
(肩の力を抜いて、毎日遊んでるみたいに、楽しく過ごせるな)
(しかも、その方が独自性のある商品が作れるし、やってて単純に楽しい)
(それなら創作活動もずっと続くし、幸せだし、むしろいい商品をたくさん生み出して、結果、僕自身も豊かになっていくよな)
ほら、こんなふうに、いいことだらけ。
「無価値」って、実はめちゃくちゃ身軽で、最高のポジションだったわけです。
それで今は、「無価値な自分は最高だな〜!」と思ってます。
「無価値でOKだ!」と。
■ で、ふと思ったんです。(そもそも価値って何だ?)
と、ここまで考えたところで、ふと、根本的な疑問が浮かびました。
(いや、ところでなんだけど…)
(そもそも「価値」って、一体なんなんだ?)と。
「価値がある」「価値がない」って、当たり前みたいに使ってますけど、その「価値」の正体って、なんなんでしょうね?
気になったので、ここからは仏教、釈迦の教えも借りながら、深掘りしていきます。
■ 釈迦は「人に価値がある」なんて言ってない?
最初に僕が思い出したのは、仏教のこんな教えでした。
「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」。
命は唯一無二で尊い、というやつですね。
それから「盲亀浮木(もうきふぼく)のたとえ」。
人間に生まれるのは、奇跡みたいな確率なんだ、という話です。
なるほど、これなら「人間として存在すること自体に、価値がある」ってことかな、と。
最初は、そう解釈してスタートしたんです。
でも、ここで一つ、引っかかったんですね。
(いや、これって単なる「希少性(レア度)」の話じゃないか?)
(レアだからって、それが「絶対的な価値がある」ことの証明には、なってなくないか?)と。
ダイヤモンドがレアなのと、ダイヤモンドに絶対的な価値があるかどうかは、別の話ですからね。
■ 釈迦の答え:価値なんて実体のない幻(空)です
で、さらに調べていくと、初期仏教の根本に、こんな考え方があるんです。
「諸法無我(しょほうむが)」。
あらゆるものに、固定された実体なんてない、という教えですね。
これを「価値」に当てはめると、どうなるか?
つまり、「価値」という概念そのものが、人間の脳とか社会の都合で、後から貼り付けたラベルにすぎない、ということです。
実体のない、幻。
「空(くう)」ってやつですね。
だから釈迦に言わせれば、「人に価値があるか・ないか」なんて議論は、「戯論(けろん)」であると。
つまり、意味のない言葉遊びだ、というわけです。
ちょっと衝撃的じゃないですか?
■ なのに、なぜ人は「無価値だ」と信じ込むのか?
さて。
「価値」が幻だっていうなら、ここで一つ、疑問がわいてきますよね。
(じゃあなんで、人はわざわざ「自分は無価値だ」なんて、強く信じ込んじゃうんだ?)と。
これ、不思議じゃないですか?
苦しいだけなら、さっさと手放せばいいのに。手放せない。
実はですね、この一見つらいだけの「無価値感」には、心理学的に、めちゃくちゃ強力な生存メリットが隠れているんです。
二次的利益、なんて言ったりします。
ざっと3つ、挙げてみましょう。
1つ目、安全の確保。
無価値だと思っていれば、誰からも期待されません。期待されないから、失敗したときの致命的なダメージを、回避できるんですね。
2つ目、責任の放棄。
「どうせ無価値なんだから、何をやっても無駄」。こう思っておけば、現状維持という安全地帯に、留まる言い訳になります。
3つ目、先制防御。
他人に否定される前に、自分で自分を底辺まで落としておく。そうすれば、それ以上は傷つかずに済むわけです。
どうですか。
「自分は無価値だ」っていう思い込みは、傷つくリスクを最小化するための、めちゃくちゃ合理的な「過剰防衛システム」だったんですね。
ダメな思い込みどころか、有能すぎる防衛システム。
なかなか手放せないわけですよ。
■ 抜け出すコツは「価値」の土俵から降りること
とはいえ、この防衛システム、強力すぎるのも考えものです。
「どうせ無価値だから」が行きすぎると、無気力になって、何もできなくなる。システムごとシャットダウンしちゃうんですね。
じゃあ、どうやって、また動けるようにするか。
ここで、さっきの話に戻るんですが。
正面から「自分には価値がある!」って思い込もうとするのは、悪手でしたよね。
脳が脅威を感じて、もっと強くブレーキを踏んじゃうので。
じゃあどうするか。
答えは、そもそも「価値」っていう土俵から、降りちゃうことです。
評価基準を、「価値」から「快・不快」へ、ずらすんですね。
つまり、こういうことです。
「これをすることに価値があるか?(他人にどう評価されるか?)」
こういう架空の重りを、ポイッと捨てる。
かわりに、
「純粋に、やりたいか?(快)」「やりたくないか?(不快)」
という、動物としての根本的なスペックだけで、判断する。
考えてみてください。
ゲームをするのに、いちいち「これに社会的価値はあるか?」なんて、問いませんよね。
ただ「楽しいからやる」。
それだけ。
■ 行き着いた先は、子供の頃の「虫取り」でした
僕が幼い頃に夢中になっていた虫取りも、価値があるかどうかなんて考えてない。
やりたいからやってただけです。ただ、それが好きだから。
これと同じです。
余計な計算をぜんぶ省いてあげると、システムは、びっくりするくらい軽快に動き出すんですよ。
で、この「快・不快」の基準を当てはめてみたとき、僕の中で、大きなブレイクスルーが起きたんです。
たとえば、僕は今、世の中の常識を覆すような、新しいアプローチを開発しています。
メンタルから不妊を解消していく、というプログラムですね。
最初は、 唯一、こう思ってたんですよ。
「人を救いたい」「価値を提供したい」って。
でもね、「快・不快」で正直に自分を見つめてみると、原動力は、そこだけじゃなかったんです。
じゃあ、なんだったのか?
「今まで誰もやっていないアプローチを、体系化していくプロセスが、純粋に面白いから」
これでした。
これって、よく考えたら、子供の頃と同じなんですよ。
「人と違う絵を描きたい」と思ったり。
「一日中、夢中で虫取りをした」り。
あの状態と、まったく一緒。
そこには、他人の評価も、社会的価値も、一切介在していません。
「純粋な好奇心」と「没頭(快)」だけで、システムが動いている。
原点に戻った感覚でした。
■ 【結論】失うものがゼロだからこそ、ただ面白いからやれる
さて、長くなってきたので、まとめましょうか。
ここまでの話で、はっきりしたことがあります。
「価値」なんてものは、他人の頭の中にしか存在しない、幻です。
その幻に合わせて生きるゲームは、ハッキリ言って、割に合いません。
そして、ここがいちばん伝えたいところなんですが。
僕たちは「無価値だから動けない」んじゃないんです。
逆なんですよ。
「無価値だ(=どうせゼロで、失うものなんて何もない)」からこそ、
意味なんて気にせず、「ただ面白いからやる」という、究極の原点に戻れるんです。
失うものがゼロなら、怖いものなんてないですからね。
筋トレも、お金も、仕事も。
「価値があるからやる」んじゃなくて、「ただ、やりたいからやる」。
そっちに切り替えたほうが、よっぽど身軽で、よっぽど遠くまで行けます。
もしあなたが今、「〇〇がない自分には価値がない」と感じて、しんどくなっているなら。
無理に「価値あるよ!」と思い込まなくて大丈夫です。
そのかわり、こう問いかけてみてください。
「これ、僕は(私は)、純粋にやりたいんだっけ?」と。
それがきっと、肩の力を抜く、最初の一歩になります。
それでは、また!
