真一です。
今日のテーマは、
1:不公平は本当にダメなことなのか?
2:世界に隠された『ポジティブな不公平』について
この2つをお伝えします。
先日、うちの息子が友達の家に遊びに行った時のこと、
「遊びに行くのはいいけれど、赤ちゃんが寝てるからうちには連れてこないでね」
僕は息子に、そう伝えてありました。
理由は簡単で、小さな子たちが家の中でかくれんぼや鬼ごっこを始めると、赤ちゃんが寝られなくなってしまいます。
僕自身も家で仕事をしているため、騒ぎになってしまうと仕事になりません。
ところが、息子はその遊びに行った先で、
「うちは連れてくるなって言われてる」と、相手の親御さんに無邪気に言ってしまったのです。
今朝、その親御さんから「そういうやり取りがあったよ」と聞かされました。
その瞬間、僕の心の中にチクッとした感覚が走りました。
『やばいな、文句を言われているんじゃないか?』
相手が直接文句を言ってきたわけではありません。
でも、僕は勝手にそう捉え、内心焦ってしまったのです。
なぜそんなに焦ったのか。
でも、そもそも、なぜそんなに焦ったのか?
心の声をなぞってみると、こんな声が響いていました。
(お前マジか。言うかなそれを…)
(言い方あるやん)
(うちの子ばかり遊びに行かせてもらって、相手の子を呼ばないなんて、不公平だろう)
僕は、誰かに言われたわけでもないのに、自分で自分を「不公平だ」と責めていた。
これに気が付きました。
では、その前提は?
それは、「不公平は悪いこと」だと思い込んでいるから。
ここが、そもそもヤバい。
だから自分を責め、それが気まずい現象として現れてしまう。
でも、そもそも、「不公平=悪」だと、だれがきめたの?
それ思い込みじゃん!?
なので、この認識を変えれば、自分を責めることもなくなり、この状況も消化できるはずです。
そもそも、不公平自体が悪いことだというのは、一つの解釈に過ぎないので。
というわけで、少し視点を高くして、全体を眺めてみました。
そもそも、自然界も社会も、そもそもすべてが不公平でできています。
それが自然な姿なのです。
歴史を振り返れば、すべてを完全に公平にしようとした社会主義は、人々が働かなくなり、結果的にみんなが貧しく不幸になってしまいました。
公平は無理ゲーなのを歴史が証明してくれてます。
一方で、実は不公平だからこそ、生まれる素晴らしいものがあります。
たとえば、誰かが才能を発揮して豊かに生きている姿を見たとき。
「自分はまだまだだ。自分も努力して、たくさんの人を喜ばせられる存在になりたい」と、自らを成長させる強い動機になります。
また、能力の不公平があるからこそ、『助け合いの精神』が生まれます。
料理が得意な人、食器を洗うのが得意な人。
野菜を育てるのが得意な人、魚を獲るのが得意な人。
一人ひとり得意な分野が違うからこそ、それを持ち寄って、バラエティ豊かで美味しい料理ができあがります。
社会全体が、そうした適材適所のパズルで繋がり、より素敵に、便利になっていくのです。
人間関係の仕組みも同じです。
今回のように、不公平さから生じる摩擦があったとします。
でも、それがあるからこそ、
「土日やバーベキューの時ならいつでも遊びに来ていいですよ」と、お互いの生活を尊重した新しいルールを提案し、より良い関係を築くこともできますよね。
他にも、心が激しく揺れ動くような芸術も、理不尽さや悲しみという不公平から生まれてきました。
クラシック音楽のように、ネガティブな感情を消化する過程で、多くの素晴らしい作品が誕生しています。
そして何より、人生の無上の喜びは、不公平さの先にあると僕は思っています。
悲しみや怒り、哀れさというネガティブな感情を深く味わい、その奥にある価値に気づいて消化したとき、
『ああ、すべては自分のために起きていた愛だったんだ』というアハ体験が訪れます。
(全部自分のために起きていたことだったのか!全部、愛だった…。)
と気がついた時の、愛に包まれていたんだと気づいたときの、あの感覚は、感涙ものです。
ほかにも、たとえば僕は以前、税金や社会保険などで一気に1,000万円ほど支払ったことがありました。
『自分は悪いことをせずお客さんに喜んでもらっているのに、なぜこんなにお金を持っていかれるんだ。市役所で住民票を取るのにファストパスがもらえるわけでもない、なんの優遇もないのに…。』
その時は、猛烈に理不尽で不公平だと感じました。
デヴィッド・R・ホーキンス博士の意識の階層で言えば、これは社会の制度に対して脅威を覚え、無気力や怒りを感じている低いエネルギー状態です。
でも、よく考えてみると…。
その税金によって、日本という安全な環境や社会インフラが作られています。
たくさんの人が安全に生活できるようになるからこそ、人々に余裕が生まれ、僕が何かを販売した時に買い物をしてもらえるのです。
直接的な見返りがないように見えて、実は十分に自分のところへ戻ってきています。
そう考えると、税金の不公平さすら、実はまったく不公平ではないのです。
じゃあ、富の偏りは?
一部の富裕層だけが富を独占しているのはどうなのよ?
これも面白いテーマですよね。
例えば、僕らが普段使っているスマホ。
これって、つくるのにどのくらいのお金が必要なでしょうか?
半導体の工場を作るだけで数兆円の設備投資が必要です。
数兆円ものお金、超富裕層しか動かせませんよね。
もしもこの世に富の偏りがなかったとしたら、今ごろスマホは誕生していませんでした。
車も電車も何もかも、富の偏りがあったからこそ、今こうして使えているわけです。
そう考えたら、富の方よりという不公平すら、それはあったほうがいいよね、と思いませんか?
社会制度の進歩、技術の進歩、人間関係の進歩、どんな進歩も不公平の賜物なのです。
今日、ママ友からの言葉をきっかけに、僕は自分が自分を責めていたことに気づきました。
不公平は自然なことであり、僕たちを成長させ、助け合いを生み、深い喜びを教えてくれるものです。
それは、僕たちに対する世界からの愛の形でもあります。
世の中は不公平だからいいのです。
「ありがとう不公平!」状態です。
不公平だからこそ、こんなにも素晴らしいことがたくさんある。
だからもう、
「不公平だ」と自分を責めるのをやめて、
「不公平は素晴らしい」という前提で、
息子たちには今後とも、じゃんじゃん友達の家に遊びに行ってもらいたいなと思いますw
それではまた!
