世界のHONDAは、誰が創業したのか。
本田宗一郎(1906-1991)です。
自分が好きなことで、自らが創業、その好きな夢を実現した。
こんな経営者はめったにいません。
戦後の日本が焼け野原だったころから、オートバイ、スポーツカーを自作し、そしてついには後継の技術者たちがビジネスジェット機まで商品化してしまうのです。
そのDNAがすごいですね。
この本田宗一郎を年表とともに、その名言や逸話を紹介させてください。
本田宗一郎年表
主な功績
本田宗一郎の功績は、なんといっても名車といわれた二輪車や四輪車を世に出した「物(モノ)づくり」にあったと言ってもいいでしょう。
ここにそのモノを年代順に列挙してみました。
・A型自転車用補助エンジン(ホンダオートバイの原点)
昭和23年、41才のとき。
この自転車用補助エンジンは昭和22年ごろから4年間にわたり生産されたもので、要は自転車に補助動力としての50cc、0.5馬力エンジンを取り付けたものでした。
今の電動アシスト車にも相通じているアイデア商品でした。
・ドリーム号(日本のオートバイの夜明け)
昭和24年、42才のとき。
ドリーム号の名前は社員とドブロクを飲みながら「夢」(ドリーム)を語り合って名づけたとされる伝説があります。
これが日本のオートバイの先駆けなのでした。
E型はえんじ色で空冷4サイクル、OHV単気筒146ccの5.5馬力でした。
もうひとつのD型は黒色で空冷2サイクル、単気筒98ccの3.5馬力でした。
・カブ型F型(自転車用補助エンジン)
昭和27年、45才のとき。
A型と同様に、客の自転車に後から取り付けるもので、「白いタンクに赤いエンジン」のキャッチコピーで爆発的に売れた自転車用補助エンジンでした。
「カブ」は「おいちょカブ」から出たとの俗説も有ります。
輸出もできた人気商品でしたが、やがてオートバイの普及と共に、逆に在庫が増えていったのです。
F型は空冷2サイクル、49ccで1.0馬力でした。
・スーパーカブC100(実用オートバイ)
昭和33年、51才のとき。
今のホンダはこのスーパーカブのヒットのおかげだといわれるほどの超ベストセラーだったのでした。
空冷4サイクルOHV単気筒、49ccで4.5馬力です。
カブは徹底した実用性をそなえた設計で、今でもそば屋の出前や新聞配達、郵便配達に愛用されていますね。
ピークでは月産6万台にもなり、アメリカで最初にヒットしたホンダ車がこのスーパーカブでした。
・S500(若者向けスポーツカー)
昭和38年、56才のとき。
スピード狂の本田宗一郎が、最初に創りたかったのは、やはりスポーツカー。
当時は高速道路建設が始まった高度成長のはじまり、この「国産スポーツカー」はマイカー時代のファンの心を捉えます。
その後もこのSシリーズはS600やS800となって人気が続いています。
・RA272(F1レースカー)
昭和40年、58才のとき。
F1レース、メキシコグランプリで日本車が初優勝できたのが、このRA272だったのです。
水冷60°V型12気筒DOHC、1495ccで230馬力以上でした。
英国のマン島レースで得た多気筒化による高速回転ノウハウを活かした初優勝でした。
ホンダあげてのF1参加の執念が実現した瞬間でした。
・N360(大衆向け軽自動車)
昭和42年、60才のとき。
「Sシリーズ」より、もっと実用的な大衆車として発売したのがこの「Nシリーズ」です。
エンジンは空冷2気筒OHC、354ccの31馬力でした。
販売は支店所在地にショールームを置いて、サービス工場も全国ネットにすることで、驚異的に売り上げ、1ヶ月で3万4000台が登録されました。
ホンダは後発メーカーから「大人のメーカー」になったとのです。
・ドリームCB750(ナナハンバイク)
昭和44年、62才のとき。
「ナナハン」の750ccです。
アメリカ人が高速道路を長距離走行するのにも耐えられるような大型バイクです。
空冷4サイクル67馬力で、このナナハンは白バイにも広く採用されました。
ホンダのオートバイは「カブ」から「ナナハン」になり、3年間は敵なしの快進撃だったのです。
・H1300(高性能車1300cc)
昭和44年、62才のとき。
空冷エンジン論者の本田宗一郎が誇った高性能車でした。
空冷4気筒SOHC、1298ccのなんと100馬力でした。
国産車では性能抜群で、東名高速で、御殿場までで百数十台を抜き、一度も追い越されなかったとのエピソードができました。
しかしこの空冷車は社内の若手技術者からは、水冷エンジンの開発の方が必要と言われるなど、若手との対立もありました。
やがて本田宗一郎が社長を引退するきっかけにもなっています。
・CIVIC(環境にやさしい名車シビック)
昭和47年、65才のとき。
本田宗一郎は社長を引退して、脇役に徹していたときに生まれた名車がシビックです。
CVCC水冷4気筒SOHC、1488ccの63馬力。
あのH1300 は失敗で、つぎの4輪車をと期待されていたシビックが開発されました。
従来のスピード優先から燃費の良さを追求したエンジンが、オイルショックの追い風も受け、時代感覚の鋭い消費者に受け入れられたのです。
「日本カーオブザイヤー」にも選ばれ、アメリカではその「シビック」感覚が受けてヒット、世界中にも輸出されています。
さすが「エンジンの本田さん」、モノづくり名人の面目躍如でした。
つぎに本田宗一郎の少年時代からの年表です。
年表
少年時代
・1906年(明治39年、0才)、浜松に生まれました。
・1919年(大正8年、13才)、二俣町立二俣尋常高等小学校入学。
・1922年(大正11年、16才)、高等小学校を卒業して、東京・本郷区湯島の自動車修理工場「アート金属工業」に就職しています。
青年時代
・1928年(昭和3年、22才)、のれんわけで浜松にアート商会浜松支店を設立して工場主になります。
・1935年(昭和10年、29才)、小学校教員の磯部さちと結婚します。
・1937年(昭和12年、31才)、東海精機重工業を設立して、エンジン用ピストンリングの製造を行っています。
しかし技術的な壁に当たって、浜松高等工業高校(現静岡大学工学部)で機械科の聴講生になって金属工学の研究に3年携わったのです。
・1945年(昭和20年、38才)、三河地震が起こり、東海精機重工業は豊田自動織機に売却、退社して1年間の休養を宣言します。
壮年時代
・1946年(昭和21年、39才)、本田技術研究所を設立して所長に就任、内燃機関や機械の研究と製造を始めていました。
・1948年(昭和23年、41才)、本田技研工業株式会社を浜松で設立し社長に就任します。
会社の資本金は100万円で従業員は20人からのスタートでした。
この年に次男も誕生しています。
・1949年(昭和24年、42才)、この年に盟友で後のホンダ副社長となる藤沢武夫と出会っています。
・1952年(昭和27年、45才)、小型エンジンの発明で藍綬褒章を受けました。
・1961年(昭和36年、54才)、本田社長の陣頭指揮で、二輪車の世界グランプリレースを制覇しました。
・1962年(昭和37年、55才)、航空機事業への参入を宣言し、本田航空を設立しました。
・1964年(昭和39年、57才)、この年にF1レースに挑戦し、V型12気筒1500ccの四輪車と、わが国では最初のカーレーサーも完成させました。
・1966年(昭和41年、59才)、世界12カ国で争われる2輪車のグランプリで50、125、250、350、500ccの全部門を完全制覇して、世界一の二輪車メーカーの地位を不動のものとしました。
老年時代
・1973年(昭和48年、66才)、本田技研工業社長を退任して取締役最高顧問に退きました。
副社長の藤沢武夫もこの時さわやかに引退していたのです。
・1981年(昭和56年、74才)、勲一等瑞宝章を受章しました。
・1989年(平成元年、82才)、アジア人としてはじめての米国自動車殿堂入りをはたしています。
・1991年(平成3年、84才)、肝不全で逝去します。
本社の青山ビルでの「お礼の会」には述べ62000名が参加しています。
戦後の大器「町工場のオヤジ」の最後の姿でした。
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本田宗一郎の名言から15選を選んでご紹介します。
1.「むしろ震災さまさまだった」
大正11年、本田宗一郎が高等小学校を出て、浜松から父に連れられて上京、東京の本郷湯島にあったアート商会にデッチ小僧として勤めはじめました。
この自転車修理工場では、夢と現実がちがって、期待していた修理作業などはさせてもらえず、くる日もくる日も主人の赤ん坊の子守ばかりで、スパナなどは触ったことがありませんでした。
やがて半年後には修理工の仕事もさせてくれるようになりました。
ところが翌大正12年9月、関東大震災に見舞われます。
アート商会では、修理中の車が延焼しないように、すぐ運転して安全な場所に移動しろと怒鳴られます。
本田宗一郎少年は、「しめた」と思って修理中の自動車に飛び乗り運転をすることになります。
このときから暇さえあれば自動車やオートバイによろこんで乗っています。
そして焼け野原の街中に出て、困っている人をサイドカーに乗せて送ったりしてあげては礼金をいただき、その金で農家に出かけてお米を買ってきていました。
この自動車運転、オートバイ散歩、修理技術をおぼえることができて、本田宗一郎少年にとっては「震災さまさま」だったのですね。
2.「私とホンダを育てた母の四つの教え」
昔の人の生活の智恵には意外に合理的なものがあります。
本田宗一郎少年の両親は、学校の成績は気にとめない教育無関心派でした。
しかし、しつけについては相当厳しかったのです。
とくに母親は「うそをつくな、時間を守れ、約束を守れ、他人に迷惑をかけるな」の四つを耳にタコができるほど聞かされています。
もちろんこの教えを破れば、頭にはコブ、お尻にはアザができます。
これが本田宗一郎の生活信条の土台となったのですね。
3.「私は信じる。科学こそ人間最高の能力である」
「科学は人間の持つ最高の能力であり、いつの時代でも変わることのない正義であり、道徳である。
現代において科学の未熟をとりあげて、科学を否定することは絶対に許されない罪悪である。
人間否定である。」
これが名言でした。
4.「笑いのわかる人となれ」
日本では、人前で笑えばはしたない!という「笑わない文化」があると、本田宗一郎は嘆いています。
「国際化にはユーモアやジョークのある風土が重要」と言い切っています。
あるとき、コマーシャル契約で、米ロスアンジェルスで映画スターのスティーブ・マックィーンと面談した時のこと。
当時アメリカがインディアン問題で頭を抱えているという話を聞いていた本田宗一郎はマックイーンに質問します。
「インディアン問題でアメリカも大変だね」と。
マックイーンは「あんなのは政府が手を出さずに、専門家にまかせればいいんだよ」と簡単に答えてきました。
そこで「専門家がいたの?それは誰かね」と聞きました。
すると彼は「ジョン・ウェインだ」と言ったので、周囲は大爆笑になったんですね。
当時の西部劇映画ではいつも主役のジョン・ウェインがインディアンをやっつけていたからのジョークでした。
国際化が進んだ現在も、地球上すべての国民と接していかないといけない。
「笑いのわかる人となれ」には、ユーモアを使った国際感覚を身につけてこそ、日本の将来が拓かれるとの意味の名言でした。
5.「人の心を知ることは創造の根源である」
科学技術者といえども、どだい最終的には人間のためにという課題を背負っています。
商品は人間を相手にする。
買ってくれる客は人間なのである。
人間の心を理解し、不満や希望を知らなければ、大衆に受け入れられる商品を、創造し生産することはできないという名言でした。
6.「人に迷惑をかける会社にしたくない」
本田宗一郎は私生活でもそうでしたが、企業活動でもこの名言を守っていました。
当時、企業の公害問題がクローズアップされていますが、「私は人に迷惑をかけない」というのが操業当初からの最大の自戒でした。
幸いなことに、友人であり事業経営の片腕であった藤沢武夫の考えとも一致していたのでした。
このことからホンダは会社の敷地には塀を立てないことで付近の住民に暗がりをつくらないようにしていました。
また敷地の周りに必要以上の街路照明をつけたのも、この名言のためでした。
7.「派閥は人間平等の精神の敵である」
人間そのものを尊重し、その特性を正当に認め合えば、派閥などという非人間的な関係は生まれない。
このような人間尊重も平等の精神もない人間関係ほど、私のカンにさわるものはない。
このように本田宗一郎はいつも、人間の平等を謳っていたのです。
8.「うちのエンジンはよく走るか?」
元F1ドライバーの中嶋悟が1981年秋のF2レースで連続優勝して、〈ホンダ〉に日本初のF2チャンピオンをもたらしました。
本田宗一郎の自宅にこの報告に行ったときの言葉がこの「うちのエンジンはよく走るか?」でした。
中嶋悟は当時をふりかえって、
「ちょうど10年間、ドライバーとして〈ホンダ〉とつきあったわけだけど、とにかくあきらめずに可能性を追求していくのが、一貫した〈ホンダ〉の姿勢だった」と言っています。
9.「すぐれたジョークは、すぐれたアイデアに通じる」
ウィットやユーモアには鋭敏な観察力と、幅のある智恵と、人間の機微がわかる情味がないといけない。
創意工夫のひらめきと、洗練されたジョークは同じ土壌から生み出される。
こういう名言でした。
10.「ホンダの商品は一杯呑み屋から」
「最近は企業の間でも市場調査というものが使われている。
これはある意味では有効で、たとえば既存の製品の評判などを探る場合である。
しかしこれを元にして改良品や新製品を作ることはできません。
大衆は作家ではなく、批評家なのです。
私はというと好奇心の強い方で、いろんなところに顔を出すのも好きである。
一杯呑み屋にもよく出かけるし、ここから商品アイデアが磨かれることもある」。
新鮮なデザインやアイデアは「井の中のかわず」や「馬車馬式」ではできないのですという意味の名言です。
11.「真の喜びは、他人に奉仕した量と質に比例する」
「人間が苦労に耐えながら追求する喜びは、正義でなければならないし、他人の犠牲を必要としてはならないし、同時に他人の喜びに通じるものでありたい。
いつ、どこでも、誰にも誇りを持って味わえる喜びを、私は追及していきたい。」
12.「ほれ込めば、苦難の千里も一里となる」
昭和27年の藍綬褒章授賞式のことでした。
この席上で高松宮殿下が、受賞者で最年少の本田宗一郎に目をとめられて、「発明工夫というものは、ずい分と苦しいことでしょうね」と言葉をかけてきました。
本田宗一郎は、なんと「恋愛と同じです、惚れて通えば千里も一里です」とお答えしたのですね。
苦しいけれど、逆にこれほどたのしいことはありませんということですね。
殿下は、このおっちょこちょいな説明に、一瞬妙な表情をされたそうです。
こんな色町でおぼえた遊び人の都都逸(どどいつ)で答えたんですから。
やりすぎですよね。
13.「アイデアは資本に優先する」
「資本が力で優先していた時代は終わった。
時代にアピールする優れた商品は、アイデアが生み出す。
それを効率よく作る生産手段も人間のアイデアからできて来る。
過去の生産手段が貧しかった時代は資本家に頼らざるを得なかったが、今はその必要もなくなった」。
14.「時間はすべての生命である」
「どんな発明発見も他より1秒でも遅れると、もう発明でも発見でもなくなる。
寸秒の時間が偉大な価値を左右する。」
現代では、時は金以上の価値があり、すべての生命であるとの名言でした。
15.「満足だった」
本田宗一郎が亡くなる二日前のこと。
奥さんに「自分を背負って歩いてくれ」と言ったので、さち夫人は点滴中の夫を背負って病室を歩いています。
この時に一言「満足だった」の言葉を残しています。
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本田宗一郎の逸話
本田宗一郎の逸話は枚挙にいとまがないほどですが、その一端を紹介してみましょう。
戦後のドタバタ草創期
終戦のためにピストンリングの製造は完全にお手上げ状態になります。
本田宗一郎の東海精機はトヨタの資金援助も得ていましたが、トヨタから部品をつくってくれないかとの話があり、これを断って持ち株をすべてトヨタに売り渡します。
戦時中のトヨタは小じゅうと的だったので、戦後はもっと自分の個性をのばした好き勝手なことをやりたいと思ったのですね。
売り渡したお金を元手につぎの仕事を考えたてみのですが、思いつかずに1年間尺八などを吹いて遊び暮らします。
今でいう″プー太郎”なんです。
ある日は東海精機のあった磐田でアルコール工場から医薬用アルコールを買ってきて、好き勝手に自家用合成酒を作り、友人を集めては飲み明かします。
また当時は食糧難だったので、浜松の海岸で電気製塩をやって、塩一升を米一升と交換して喜んでいました。
女房はだんなが腑抜けになって遊びほうけているのが心配だったそうです。
それから織物景気が始まって、その織機音から”ガチャマン”景気に乗っかってロータリー式の織機を作ろうとし、バラック跡にホンダ技術研究所を設立することになりました。
しかし資金もなくなり、織機はあきらめ、つぎに思いついたのがモーターバイクでした。
このために戦時中に軍が使っていた通信機の小型エンジンが付近にゴロゴロあったのを安く買い集めたのです。
それを自転車につけて走らせたのが、なんと大評判になったのです。
当時は交通機関が整備されていないため需要もあって、各地の自転車屋さんやヤミ屋が買いに来て飛ぶように売れたそうです。
機械作りの好きな本田宗一郎は、ここでエンジンまで作ってしまえと、爆撃されたままの工作機械を修理し工場に設置してエンジンの製造にかかったのです。
これがホンダのドタバタ草創期になったのですね。
エンジンをつけたら買い出しが楽になる
終戦直後の時期、奥様が苦労して買出しや物々交換にと毎日のように出かけてたいへん苦労するのを見ていた本田宗一郎は思ったのですね。
「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と。
これがオートバイの原点となるA型自転車用補助エンジンの発明につながったのです。
藤沢武夫との分担
本田宗一郎の生涯の盟友であった副社長の藤沢武夫とは名コンビでした。
あのSONYの創業者井深大と盛田昭夫が生涯の盟友であったようにです。
本田宗一郎は経営面については藤沢武夫にすべて任して、自分は技術開発に専念することができたのです。
会社が曲がり角に入った時にはいつも助言をもらっています。
藤沢武夫も「本田がいなければ、ここまで会社は大きくならなかった」と述懐しています。
英国マン島のTTレースに参加宣言
そのころのオートバイ関係者の夢は、英国のマン島で毎年ある世界各国の優秀な技術を争うTTレース(ツーリスト・トロフィー・レース)での優勝であります。
420キロを一気に突っ走るという過酷なものです。
本田宗一郎のホンダがこれに、昭和29年に参加宣言します。
この狙いは、レースに参加して優秀な成績を上げてオートバイ市場をドイツやイタリアから奪い取りたい、このための技術をレベルアップしたい、というものでした。
もうひとつは敗戦直後の日本を元気付けた、オリンピック水泳で金メダルと活躍された古橋広之進さんのように、国民に日本人としてのプライドを持たせることができると考えたからでした。
この宣言から7年後にはマン島TTレースを制覇、ホンダのエンジンの完璧性で世界市場から絶賛を受けています。
皇居での勲一等授賞式にツナギで
皇居に授賞式のために出席のときのこと、「技術者の正装は真っ白なツナギだ」といって聞かなかったことがありました。
結局は説得されて社員の燕尾服で出席されたのでした。
燕尾服が手元になかったための照れ隠しだったようです。
差別は諸悪の根源だ
子どものころから、貧しい家庭に育ったために、まわりからよくいじわるされたようです。
また「家族の中でお風呂に入る順番が決まっている」ということにも差別を感じていたようですね。
本田宗一郎は生涯を通しても人種や家柄、学歴などで人間を判断することを徹底して嫌っていました。
社長を突然退任したわけは
マスキー法施行で、低公害エンジンを開発中であった本田宗一郎が、「これは世界の自動車ビッグ3を抜くチャンスだ」と社内で意気込んだ時のことでした。
若手技術者たちからは
「なにもホンダのためだけにやっているのではない、社会のために開発しているんだ」
といわれてしまったのでした。
この時から本田宗一郎は自分の時代は終わったと悟ったようでした。
もうひとつの理由は、当時本田宗一郎は「空冷エンジンが一番」とあいかわらず主張していたのですが、若手技術者たちは公害規制をクリアするためにも「水冷エンジンがこれからの主役」と言って対立中でした。
結局各種の実験の結果は、水冷式が優れており、ホンダは水冷エンジンの路線に変更したのでした。
この二つのできごとで、オヤジ本田宗一郎は社長を退任したとのことです。
このとき同時に副社長の藤沢武夫も仲良く一緒に現役を退きました。
F1ドライバー アイルトン・セナ
後世に名を残し、全世界に知られるF1ドライバーは本田宗一郎が情熱を傾けたレースの申し子、アイルトン・セナでした。
1988年のシーズンから5年間、アイルトン・セナ、マクラーレンそしてホンダのトリオは数々の華麗なシーンを見せて来ました。
まさに愛車「マクラーレン・ホンダ」を駆っての常勝マシンの活躍です。
しかし1992年、この年〈ホンダ〉は正式にF1からの撤退を宣言中。
なんとセナは下馬評をひっくりかえしてイタリアのモンツァサーキットで〈ホンダ〉に70回目の大勝利をもたらしたのでした。
セナは言いました。
「あの人(本田宗一郎)は、これまで出会った一番の情熱家だった。
革新とすぐれた技術への執着、レースでの勝利をめざす不退転の意思は、だれであれこのスポーツに携わる者すべての鑑(かがみ)だと思う。
ああいう人を知ることができてひどく幸せだった」。
社長は外人でもかまわない
本田宗一郎は東海精機時代よりも前から、「自分と同じ性格の人間とは組まない」との信念を持っていました。
この例が藤沢武夫でした。
「初めて藤沢と言う人間に会ってみて私はこれは素晴らしいと思った…こと販売に関してはすばらしい腕の持ち主だ」
と言っています。
また
「世の中には親兄弟だけで会社を経営して、自分勝手なことをするような会社があるが…人材は広く求め…親族に限っているようではその企業の伸びはとまってしまう。
…次期社長はこの会社をりっぱに維持、発展させる人材なら、あえて日本人にかぎらず外人でもかまわないと思う」
と言っているんです。
さすがですね。
お前みたいな汚い子は来ちゃいけない
腕白っこの本田宗一郎の子ども時代には、苦しかったこと、くやしかったことがありました。
貧乏だったので着物も買って貰えず、袖口などははなたれ小僧の鼻がこすった後でテカテカ、コチコチに固まっていたのです。
隣の家はお金持ちで、5月の武者人形を飾ります。
それを見たくてしょうがなくなって、見に行くと「お前みたいな汚い子は来ちゃいけない」と追い返されました。
このことから金がある、ないで人を差別することに疑問と怒りを心に抱きつづけてています。
そのときのくやしさが、本田宗一郎の企業経営で、「人間はだれでも皆、平等でなければならない」という企業家精神に活かされてきていたのですね。
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まとめ
小さい頃から機械いじりやエンジンが大好きだったのが本田宗一郎少年でした。
父は鍛冶屋さん、暮らしは貧乏で、トンテンカンの槌(つち)音を聞きながら毎日ふいごを押して家計のためにと手伝わされていました。
学校では電池や機械、試験管などは大好きでしたが、読み書きは大嫌いでした。
そんなある日、村に電灯がついた。
電柱にのぼりペンチとドライバーを腰にした電気工夫に感激したり、また村にほろ付きの自動車が来ると飛び乗ったりし、エンジンの振動やポタポタ落ちるオイルのにおいに体で感動します。
そして村から20kmはなれた浜松の歩兵連隊場に飛行機が飛んでくると聞くと、小銭をくすね、父の大きな自転車を持ち出して夢中でペダルを踏んでいます。
この時には入場料が足らず、塀の外から盗み見できる松の木を見つけて登り、離着陸する飛行機やパイロットの勇姿を見て、大感激しています。
これが機械にあこがれ、エンジンに魅せられた本田宗一郎の少年時代でした。
本田宗一郎はこのときの夢を実現すべく苦闘し、「99%ともいう失敗がほとんどで成功したのはわずか1%だった」と言っています。
また「人生というものは、最後までいかぬと成功だったか、失敗だったかはにわかに断じがたい…」と反省しながら言っています。
でもHONDAのDNAはバイクや乗用車だけでなく、なんと最近のビジネスジェットの商品化などにもDNAは継承されつづけています。
決して三菱、ニッサンやトヨタのような財閥や大企業でもない、「町工場のオヤジ」が実現した人生なので、それがすごいですね。
本田宗一郎の名言はいかがでしたでしょうか。
またお会いしましょう。
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