豊田英二の名言と年表、業績まとめ

世界のトヨタは同族企業なのか。

そうです、同じ愛知出身で徳川家の同族経営にも匹敵します。

 

世界のトヨタはブラック企業なのか?

これは人によって意見が別れるでしょう。

自社が第一のトヨタ生産方式や労務管理、ある意味で外注にとってはある意味ブラックともいえるかもしれませんが、恩恵を受けている人達にとっては、エンジェル企業と言えます。

 

 

ではトヨタ自動車の中興の祖、豊田英二とはどんな人なんでしょう。

徳川家と似ているとしても創業者家康(1603-1605)から二代将軍の秀忠、三代将軍家光、四代家綱(1651-1980)、五代綱吉…八代吉宗…などの個別の名前はうろ覚えですよね。

 

トヨタも同じように豊田家の誰かまではうろ覚えですよね。(失礼)

たとえば豊田家なら創業者を豊田佐吉として、つぎからの社長(代表取締役)を調べても、

  • 初代社長豊田利三郎(1937-1941)
  • 二代社長豊田喜一郎
  • 三代社長石田退三
  • 四代社長中川不器男(ふきお)
  • 五代社長が豊田英二(1967-1982)
  • 六代社長豊田章一郎
  • 七代社長豊田達郎
  • 八代社長奥田碩(ひろし)
  • 九代社長張富士夫(ふじお)
  • 10代社長渡辺捷昭(かつあき)

 

そして、現在の11代社長豊田章男(2009~)まで続きます。

 

このように、たった72年間で10人の社長がリレーしてきています。

徳川家の場合はトヨタと同じ経過年数なら四代家綱までです。

 

どうして、こんなことを説明したかと言いますと、

 

  • トヨタは同族経営会社であること。
  • 豊田英二は、豊田ファミリーの歴代社長の中で必ずしも有名ではない。

 

ということを言っておきたかったのです。

 

しかし、それでもなぜ、中興の祖と言われたのでしょうか、一緒に考えてみましょう。

ここで豊田英二の人生を年表にして紹介して行きましょう。

 

 

豊田英二年表

主な功績

・1990年(平成2年、76才)、勲一等旭日大綬章。

 

・1994年(平成6年、80才)、米国自動車殿堂入りをします。

あのホンダの本田宗一郎につづいての日本人二人目の快挙だったのです。

 

・1999年(平成11年、85才)、アメリカの週刊誌タイムで「今世紀もっとも影響力のあったアジアの20人」の一人に選ばれました。

昭和天皇、SONYの盛田昭夫、黒澤明、三宅一生、井上大祐といっしょに選出されました。

 

・2013年(平成25年、100才)、没後正三位に叙されています。

 

 

豊田英二の実績

戦後の混乱期から取締役に就任し、国際環境の激変を乗り越えて、夢であったクラウンからコロナ、カローラなどの世界的名車を量産できるようにトヨタを育て上げたことだったのです。

そういう意味で、後の世から中興の祖と言われたのですね。

 

 

年表

ちょっと待ってください。

年表に入る前に、頭に入れていただきたいことがあります。

 

それは豊田一門の家系図でしょう。

とにかくこれから紹介する豊田英二活躍の周りには、豊田と名がつく人物がたくさんでてきます。

この記事では第五代社長の豊田英二が主人公です。

 

また家系図に記載されていませんが、三代目社長の石田退三(1950-1961)と四代目社長の中川不器男(1961-1967)はファミリー外部から登用された社長です。

 

 

少年時代(~10代)

・1913年(大正2年、0才)、豊田英二は豊田平吉の長男として、愛知県西春日井郡金城村で生まれています。

当時豊田平吉の長兄は”発明王”として有名な豊田佐助で、豊田紡績の創業者でした。

 

・1921年(大正10年、8才)、小学2年生の夏休みでした。

豊田英二少年は叔父の発明王である豊田佐吉に連れられて、当時の近代都市上海に渡っています。

このときに案内してくれた現地の商社マンが若き日の石田退三社長でした。

 

《1931年、昭和6年、17才》満州事変勃発、国際連盟を脱退しています。

日本はきなくさく暗い時代に突入していきました。

 

大陸に出陣し行軍するためのトラック車両などの軍需物資が必要な時代です。

政府と軍は日本も米フォードやGM社に制約をかけても、国産自動車メーカーの育成を急務としました。

 

 

青年時代(20~30代)

《1936年、昭和11年、22才》二・二六事件が起こったのです。

 

・1936年(昭和11年、22才)、豊田英二(のちの第五代社長)は東京帝国大学機械工学科卒業し、豊田自動織機に入社し従兄弟にあたる豊田喜一郎(創業者で二代社長)宅に寄宿し自動車部(東京・芝浦)に勤務しています。

このころには喜一郎の息子であった豊田章一郎(のちの第六代社長)の学校参観日に父兄の代行として出席もしています。

また喜一郎の予言どおり日産自動車となんと新興のトヨタが自動車製造事業法の指定会社になったのでした。

 

・1937年(昭和12年、23才)自動車のことがやっとわかりかけたころ、召集令状がきました。

配属は名古屋の野砲3連隊の陸軍二等兵でした。

しかし、その2ヵ月後には突然の除隊令が下りました。鉄砲を撃つよりは1台でのトラックを作れという「技術者」の特典だったのでした。

 

帰るとすぐに挙母(ころも、今は豊田市)の新工場突貫工事に参加します。

この時に再会したのが、その後豊田自動車販売社長となった神谷正太郎で、かつて東京の喜一郎宅で「GMや海外の商社マン」と紹介されたことがありました。

この神谷正太郎の人間力もあって、初期のトヨタの販売網作りにはGMはじめ各地のディーラーが参加してきたのでした。

 

・1938年(昭和13年、24才)大陸での戦線拡大で挙母工場は月産2000台体制が完成、人員も4000人近くに拡大していました。

この年に、豊田英二は見合い写真で一目ぼれした鈴木商店名古屋支店長の娘寿子(かずこ)と婚約、楽しい戦時下を過ごしたのです。

 

・1940年(昭和15年、26才)豊田英二はこのころ中国大陸踏査をつづけます。

天津工場のスタッフといっしょに大陸内の日本帝国陸軍部隊を訪れてのヒアリングでしたが、「こんな車で戦えるか!」と詰め寄られてばかりでした。

豊田英二たちは日本語と中国語による取り扱いマニュアルを完成して帰国しました。

 

《1941年(昭和16年、27才)》経済統制でトラックも配給制となります。

時代の波は豊田織機をはじめトヨタグループ全体を、民需から軍需へと容赦なく変身させていきました。

 

《1941年(昭和16年、27才)第二次世界大戦》

この年にはトヨタ自動車工業は名目上の社長であった豊田利三郎から、あらためて豊田喜一郎が第三代社長に就任します。

後に豊田喜一郎はトヨタ自動車の”創業者”と位置づけられることになります。

 

・1945年(昭和20年、30才)、豊田英二は取締役に就任します。

この頃、トヨタ自工は1万人近くに膨れ上がっていました。

 

すでに日本全土は空襲の危機にさらされていました。

トヨタの工場も軍需工場の指定を受けていたため、米軍のB29爆撃機やグラマンの集中射撃を受けています。

そして終戦です。

 

《1948年(昭和23年、33才)》石田退三社長が自働織機300台の輸出に成功しています。

《1949年(昭和24年、34才)》アメリカの超緊縮政策「ドッジライン」施行しました。

《1950年(昭和25年、35才)》トヨタの労働争議の責任をとって、オーナーの豊田利三郎と、創業者豊田喜一郎が退陣しました。

《1950年(昭和25年、35才》朝鮮動乱が起きて特需発生

《1951年(昭和26年、36才)》トヨタは累積赤字を解消しました。

このころ「カンバン方式」の大野耐一工場長にJIT方式の実現を頼んでいます。

 

 

壮年時代(40~50才代)

《1958年(昭和33年、43才)》乗用車量産工場の建設に着手します。

・1967年(昭和42年、54才)三井銀行出身の中川不器男社長が急逝し、豊田英二がトヨタ自工の代表取締役社長に就任します。

《1970年(昭和45年、57才)》アメリカで大気汚染でマスキー法成立。

《1971年(昭和46年、58才)》ニクソンショックで日本も変動相場制に。

《1973年(昭和48年、60才)》第1次石油危機始まる。

 

 

老年時代(60才代~)

豊田英二は社長になってからも社内の生産体制の整備や経団連での財界活動、また新乗用車の開発などにあいかわらず注力しています。

 

・1982年(昭和57年、69才)トヨタ自工とトヨタ自販の合併を機に豊田喜一郎の長男豊田章一郎(当時トヨタ自販社長)に新会社の社長を譲り、豊田英二は新会社会長となります。

新会社の資本金は1,209億円、従業員数は約6万人でした。

この時に豊田英二新会長は全社員に対して「トヨタの戦後は終わった」とのメッセージを送っています。

 

・1999年(平成11年、86才)最高顧問になります。

 

・2013年9月17日(100才)心不全で死去、閣議で正三位に叙されました。

豊田ファミリーのメンバーでは最長寿を全うされました。

 

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豊田英二の名言15選

1.『家も工場の中にあった』

豊田英二の小学生時代は、「家も工場の中にあって、ぼくは機械の動力の音の中で育ったようなもの」でしたと言っています。

 

また動力設備のスチームエンジンが故障した時には、豊田英二は「ボイラーに入って、工員といっしょにふんどし姿で錆び落としを楽しんでいた」そうです。

やはり豊田佐吉も、またその長男の喜一郎もみんな”現場現物主義”だった精神は、英二にも備わっていたのですね。

 

 

2.『ちょっとややこしかったけどな』

1921年(大正10年、8才)、豊田英二がまだ小学2年の夏休み、豊田佐吉が上海にアジア市場に輸出する織機会社を設立していたのです。

なんとこの時に豊田英二少年を上海に同行しています。

そして英二少年は海外の邸宅やプール、また洋式ベッドなどに目を見張るばかりでした。

 

この時でした。

ガイド役の30才過ぎの愛嬌良い商社マンが英二に声をかけてくれたり、夜の巷に連れて行ってくれたのです。

このときの「やさしいおじさん」が後の石田退三社長だったのです。

 

英二はこの時に、自分がもらっていた日本の銀貨10円の価値が明日には変わることに疑問を持ったのですね。

小学2年ですよ。

 

後日、このことを伝え聞いていた父の平吉が英二に難問を出して困らせようと試しました。

「ニューヨークの今日の相場で、その綿を使って糸をつくり、織物にして中国に輸出するとして、それは儲かるか、損するか」

小学生に出す問題ではありません。

 

しかし数日後には、この名言で片付けてしまったのです。

びっくりですね。

やがて後年になって、前述の石田退三との二人でトヨタを再建する事になるとは…のエピソードでした。

 

 

3.『連戦連勝、向かうところ敵なしだった』

開戦まもない頃の日本軍のことではないんです。

豊田英二少年が一中時代に、凝ったのがマージャンでした。

 

自慢話や武勇伝がほとんどない英二でした。

マージャンについては工場内で工員たちがやるマージャンに引き込まれて覚えたのですが、大人顔負けの実力だったのです。

 

八高時代にも向かうところ敵なしの状況だったのです。

こればかりは大の自慢だったようですね。

 

 

4.『息子の喜一郎も大酒のみだった』

豊田英二の父平吉は”亀吉”とあだ名がつくくらいの呑み助でした。

また長兄の佐吉や三弟の佐助もやはり飲兵衛でした。

 

のちに豊田英二が

「親父は好きは好きだが、兄弟では一番弱かった。

やはり佐吉が一番強くて、そのせいか息子喜一郎も大酒のみだった。

若死にしたのもそのためだったかもしれない…」

と述懐していました。

 

 

5.『そんなに急に言われても・・・』

豊田英二は婚約中の楽しい時期のある日、社長の喜一郎から呼び出されます。

「急ですまんが、君と斉藤君をフォードに留学させる事にした」

といわれたのです。

 

このときに出たのがこの名言でした。

「そんなに急に言われても…向こうで何をするんですか」

と言っても答えはなしです。

喜一郎は合理主義者の塊で、「雑談に益なし」が信条、人間を一つのコマやパーツとしか見ていなかったようです。

 

この頃には神谷正太郎にフォードとの提携を策させていたのですね。

フォードの工場の生産システムや工作機械、また管理技術知識などを豊田英二たちの留学で持ち帰らせたかったのでした。

しかし、幸か不幸かこの留学話は取りやめになって、かわりに結婚式、新婚旅行と無事済ませることができました。

 

 

6.『人は当てにならない、みずからの力により業を完遂するのが発明研究家たる者の本道である』

これは発明王豊田佐吉が残した大正15年猛夏と記した『発明私記』の中に書いてある話です。

子ども頃よく遊んでくれた叔父豊田佐吉の名言であります。

ここから「豊田スピリット」をしっかり学んだ喜一郎と豊田英二だったのです。

 

 

7.『もし、戦争が始まったら、日本に勝ち目は有りますか』

1941年(昭和16年)にはトラックは配給制になり、経済統制で頼みの石油は輸入もできず、もはや大衆用乗用車の量産などは夢のまた夢でした。

当時アメリカから帰国してトヨタの嘱託として入ってきた丸山老人に聞いてみた言葉がこれです。

 

その答えは「冗談じゃないよ…アメリカは余力が十二分、国力を比べると100対1くらいで、自動車を作っている君ならいわずともわかるでしょう」でした。

 

そういえば祖父の佐吉が明治時代、

「アメリカでは自動車が蟻の列のように走っている。まるで夢のような国だ」

と何度もくりかえしていたことを小学生時代に聞いたことを思い出したのです。

1941年(昭和16年)12月8日、ついに日米開戦です。

 

 

8.「追い風のときこそ金をかき集めよ」

これは石田退三の名言、この時期に石田は積極的な増資策を連発、機を見て敏な石田が言ったのがこれでした。

朝鮮戦争勃発後の特需景気、1951年(昭和26年)3月期にはトヨタは累積赤字を解消します。

 

さらに次の乗用車時代に備えて、技術の元締めであった豊田英二をアメリカに行かせたのも、この石田退三社長でした。

まさに機を見るに敏です。

 

 

9.『なに、国敗れてトヨタあり、トヨタ残りて車産業有りですな』

1945年(昭和20年)8月15日 終戦。

学徒動員や女子挺身隊などを帰郷させる手配などで混乱したのですが、約1万人いた従業員は3000人ほどに減りました。

豊田英二は生来がクールなのか、皆が涙するなかで「やっと終わってくれたか」と安どしています。

この名言は会社の再出発の時に言ったもので、無口な豊田英二が放った冗談は一同の意気を大いに盛り上げたものでした。

 

 

10.『トヨタも変動相場制に…』

1971年(昭和46年、58才)、この年ニクソンショックが起こります。

米ニクソン大統領から、一律10%の輸入課徴金の設定と、金とドルの交換停止が発表されたのです。

 

ちょうど石田社長が勇退した1ヵ月後のことでした。

役員会ではメンバーはおろおろするばかりでした。

 

豊田英二社長は

「…これが正常な姿です。

したがってトヨタも変動相場制に対応して、競争力のあるクルマを作っていかねばなりません」

と為替の本質を知った上でのトップとしての発言だったのですね。

 

 

11.「技術屋のプライドにかけて…」

1970年(昭和45年、57才)、アメリカで大気汚染対策のために自動車の排ガスを規制するマスキー法が成立します。

このときには豊田英二は日本で国会にも呼び出されます。

 

当時日本自動車工業会の会長をしていたためで、また排ガス規制とクルマの性能の維持でトヨタはじめ日本メーカーは技術的な困難に直面していました。

触媒技術ではホンダとマツダが先行していて、トヨタはまだ未達成でした。

 

豊田英二社長は「とにかくトヨタ内で触媒方式を完成させよ」との号令に答えたのが、中央研究所の松本清(後の副社長)のこの言葉でした。

じつはこの後に第1次石油危機が発生して、アメリカをはじめ世界的に燃費のよい車が爆発的に売れはじめます。

トヨタは新しいエンジン段階での排ガス発生防止技術が当たって、トータルで燃費の良い排ガス対策車を世界中に販売できたのです。

 

 

12.『私は大野さんに今の時代にあったジャストインタイム方式を開発してもらいたい』

豊田英二はフォード・モーターで学んだことを合理化と品質向上に向けたのです。

ものづくりの基本は現物、現場、現実の三現主義にあるとしています。

 

1951年(昭和26年、36才)、技術部門の長であった豊田英二は機械工場の工場長大野耐一に会いました。

大野耐一は後に「かんばん方式」を考え出した人物です。

 

豊田英二が説得します。

『豊田喜一郎が戦前の織機時代から言っている「ジャストインタイム」(JIT)をぜひ導入して欲しい』

もちろん、このための現場や外注会社への説明では、この今までのロット生産型からJIT方式への意識改革には大変な労力を必要することは皆が気づいていました。

 

しかし引き受けた大野耐一は、さらに進めてスーパーマーケット方式の考え方から、60年代にはカンバン方式の考え方に発展させ、やがて第1次石油危機の頃には世界にとどろく「トヨタ生産方式」(TPS)として完成させています。

トヨタはいちはやく機械のみの「自動化」ではなく、人が介在する「自働化」を創造したのでした。

 

 

13.『トヨタの戦後は終わった』

1982年(昭和57年、67才)7月1日、新生トヨタが発足した時の名言です。

このとき、トヨタ自工とトヨタ自販は32年ぶりに一つの「トヨタ自動車株式会社」になったのです。

 

また豊田英二会長は「三つのC」で新生銀行トヨタの歴史をつくると決意をしました。

「 Creativity(想像力)、Challenge(挑戦)、Courage(勇気)」

でした。

 

 

14.『次男が生まれたとき、その苦労も込めて”鉄郎”と』

豊田英二が結婚後、終戦間際に生まれた子どもが鉄郎という名前だったのです。

 

「あのころはなにしろ鉄材が入ってこんのに参った。

せっかく製鋼所(愛知製鋼)まで設けたのに、銑鉄どころか、しまいには屑鉄すら入手できなかった。

で、その苦労を込めて”鉄郎”と名づけたんです。」

と述懐しています。

 

 

15.『いるじゃないですか、絶好の人材が…嫡男の章一郎ですよ』

1958年(昭和33年、43才)、今はなき豊田章一郎からの夢「乗用車大量生産」を実行に移していきます。

新工場の敷地が払い下げとなり、第一期の敷地10万坪の年産12万台の大型工場の建設です。

 

豊田英二は輸送用道路、下請け工場招致、人材の登用など多忙の中、メドがついたので石田社長に最終決裁をあおぎます。

このときに「今回は、若い人に突撃隊長をまかせたい」と言って、弱冠32歳で豊田喜一郎の嫡男章一郎を実行責任者にと紹介したのでした。

こうしてトヨタファミリーで後継を育てていったのでした。

 

この元町工場のライン・オフ式では石田退三ー神谷正太郎の工・販コンビがテープカットしていました。

ここから世界のトヨタが羽ばたいていったのでした。

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豊田英二の逸話

叔父の佐吉

世界の織機王、豊田佐吉と幼かった豊田英二は、実の親子のように仲が良かったのでした。

佐吉には、長男喜一郎がいたのですが、それより18才下の甥っ子英二を可愛がっていたのです。

 

佐吉の父は伊吉といって、農業兼便利で三人の男子をもうけ、それが上から佐吉、英二の父平吉、佐助だったのです。

佐吉の父であった豊田伊吉はいつも「兄弟3人力を合わせて家業を盛り上げよ」と言っていました。

 

それが現在のトヨタ王国の基となったのでした。

とくに発明王と呼ばれた豊田佐吉の精神は、甥っ子の豊田英二にもつながっていたのですね。

 

 

小学校から帰るとラジオにかじりつく

小学校の夏休み、ひょんなことから叔父の佐吉に連れられて行った上海は、豊田英二の原点ともなる思い出の地でした。

その上海から帰国した豊田英二少年は、その頃普及が始まったラジオ放送受信機を工員の真似をしながら組み立てました。

 

学校から帰ると豊田英二少年は、この手作りラジオから流れる「繊維相場の市況」を熱心に聞き、「為替の変動が面白いんだよ」と言っていたそうです。

やはり単なる技術屋のたまごではないし、タダモノではなかったのですね。

 

 

東京帝大進学は豊田喜一郎の前例から

豊田英二少年が卒業した愛知一中は、今も昔も県下一の学校です。

ここの5年制を飛び級の4年で終えているのは相当の秀才だったのですね。

 

17才の豊田英二は学校側にも薦められ第八高校(元名古屋大学)を「ほんの腕試しのつもり」で難なく合格したのです。

しかし結束が固い親族会議では、佐吉が「学校は中学だけで十分だ、早く後を継がせるべきだ」と反対します。

 

というのも佐吉はかって、一人息子喜一郎を高等学校に行かせてから家業を継がそうとしましたが、喜一郎は帝大(東大)受験をしたいと思いつめて、佐吉の弟である平吉から頼んでもらい、これを認めさせたという経緯があったのです。

 

その平吉の息子である豊田英二が八高進学を希望して反対されているのを、今回は従兄弟の喜一郎が助けたのでした。

「ぼくの時もそうだったじゃないか、今は根性とか努力だけでは渡れない、英二はぼくが責任をもつから八高に行かせよう」と言って説得してくれたのです。

結局、佐吉の学歴無用論は子どもの代までは通用しなかったのですね、やがて豊田英二はこの八高につづいて喜一郎が卒業した東大機械科に進むのでした。

 

 

豊田佐吉は「学歴無用論」だった

豊田佐吉の学歴無用論には理由がありました。

それは彼自身が小学校しか出ておらず、文字どおり徒手空拳から身を起こして、世界の織機王とまでいわれるようになった、立志伝上の発明王だったことです。

しかしこの佐吉も長男の章一郎には甘く、結局章一郎は父との約束「一発合格」で東大に合格したのです。

 

 

東大の三四郎池を見て

豊田英二は高校時代、夏休みの実習で東京に出かけたことがありました。

愛知の田舎とちがって東京は新鮮でした。

 

ある日、本郷へ出て東大の赤門に行って従兄弟の喜一郎が出た最高学府はどんなところかこの機会に見ておこうとしたのです。

キャンパスを見て三四郎池で休んだ時に、ある思いにとらわれます。

それは「そうだ、喜一郎さんもここを出た…じゃあ自分も挑戦してみよう」と。

 

今まで父の平吉から「お前は将来なにがしたいのか」と言われても「もっか思案中だ」としか答えられなかったのでした。

その英二が始めて抱いた人生の目標だったのでしょう。

 

 

豊田精神を学ぶ

ある日、豊田英二が喜一郎宅に呼ばれて「豊田精神」を学ぶことになりました。

ここで読んでみろと言われたのが豊田佐吉の書いた『発明私記』だったのですね。

 

そこには佐吉が発明の道を志した動機から企業家や資本家に裏切られたことから、『人は当てにならない、みずからの力により業を完遂するのが発明研究家たる者の本道である』と書いていました。

豊田英二はここで

「世間の若者の覇気を謳歌することを抑えて、ただ発明・研究のために自己を抑え沈鬱遅鈍(ちんうつちどん)な性格になりきろうとした」

という気質を自分も心がけようと学んだのですね。

 

 

豊田喜一郎の情報チャンネル

従兄弟の喜一郎のすごさは東大機械科卒の強みを活かして、官僚や学会に強いパイプを持っていたことです。

戦時中、豊田喜一郎はその情報チャンネルで、もうすぐ国産車メーカーの保護育成策が施行されるという時の変化を察知していました。

このために豊田英二は、政府の軍用自動車補助法を大幅改正して、国産メーカーの強力な保護・育成策を得ようと動いたりしていました。

 

 

自動車部の発足資金は

さてこの豊田喜一郎が自動織機のなかにこっそりと自動車部の組織を作れたのは、実は父豊田佐吉から遺産として貰っていた100万ポンドの研究資金があったからでした。

佐吉は織機の特許をイギリスの大手織機の「プラット社」に売った代金でした。

 

織機の開発を手伝ってくれた喜一郎への謝意と父子で確認していた新事業(自動車)への進出資金でした。

このようにして織機全盛であった社内に、目立たせずに自動車開発のトタン屋根の建屋をを作って、治外法権のエリアをきづいていたのです。

 

 

山盛りの大根おろし

大学の冬休みには帰省し、自動織機の自動車部に喜一郎を訪ねます。

工場ではどうもオートバイの小型エンジンの試作中でした。

 

昼休みに喜一郎から食堂で「うまいぞここの飯は」と言われました。

そこで昼食の盆をみたら、大盛のご飯に味噌汁、干物魚の焼き物と野菜の煮付けでした。

びっくりしたのは、「大盛の大根おろし」が添えてあったことです。

 

そのわけを喜一郎が得意げに

「大根おろしはジャスターゼの固まりだ。

これを食うと食後感がすっきりして、午後の仕事も能率があがるんで、一石二鳥だ」

ということでした。

 

さらに、話はつづきました。

ここで佐吉の遺言ともとれる

「親父がアメリカに工業視察に行ったら、ちょうど車の発展期で…織機の次は自動車だ…お前にその志を継いで欲しい」

との話を当時38才の喜一郎から聞かされています。

 

 

いい夢を見させてやるよ

1936年(昭和11年、22才)、この年にあの二・二六事件が起こっていました。

豊田英二は優秀な成績で東大を卒業し、最初はOBも多い重電の日立製作所に行くことを教授からも薦められていました。

 

いったんは帰郷して相談してくるとして、さっそく喜一郎のもとを訪ねています。

「お前はうちにきて自動車をやればいいんだよ」

 

英二は「本当に、自動車産業がやれるのかなあ?」とたずねます。

 

ここで喜一郎が殺し文句の

「もうあとへは引けんのだ。

おまえも技術屋なら俺といっしょに夢を見ようじゃないか。

いい夢を見させてやるよ」

でした。

 

しかし喜一郎は翌日には手回し良く、英二の父平吉のところに行き、のん兵衛同士で酒を飲みながらの膝詰め談判で英二を「貰いうける」ことに成功しています。

 

 

戦後の労働争議

1948年(昭和23年、38才)、豊田英二は喜一郎から頼まれて、刈谷市の自動織機社長になっていた石田退三をたずねています。

石田を訪ねた目的は、折からの左翼ブームでトヨタ系の各社は労働争議の渦に巻き込まれていました。

豊田自動織機はとくにひどく、組合の攻勢も外部からのプロ扇動部隊が加わったりで、工場は操業不能になっていました。

 

しかし親分の苦労人社長の石田は平然としていて、

「あんなものはハシカ、放っとけば熱が醒めるわ」

といって図太く立ちはだかったのです。

組合側もこの強気一本の石田の態度にやがては折れて、信頼関係が一応戻ったのでした。

 

当時石田はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に通い詰めたり、商社ルートから英国に工作して、300台の自働織機の輸出に成功しています。

スピーチの天才でした。

 

この成功で業績も見込まれ、組合との労使関係が良くなって信頼も増していったのでした。

この1948年(昭和23年)は生産実績も約7000台になりました。

しかし大半はトラックで、乗用車は1%以下の時代でした。

 

 

朝鮮動乱特需でトヨタ救われる

1949年(昭和24年、39才)、超インフレの日本で、超緊縮政策の「ドッジ・ライン」が施行され日本産業界を震え上がらせます。

トヨタも資金が得られず、給料が払えず倒産寸前にまでなります。

 

銀行団との約束で人員整理せよと言われた一方では、組合に対しては首切りはしないと言っていたので、結局労働裁判になるほどでした。

このときの裁判ではトヨタ側が勝てる労働協約書の不備を見つけていました。

 

緊急役員会であの寡黙な豊田英二が、

「法律上はそうだろうが…将来に禍根を残す…勝ったとか負けたとか、そんなちっぽけな問題じゃないんだ」

と吼(ほ)えたのです。

 

1950年(昭和25年、40才)、この争議の責任をとってオーナーの豊田利三郎と、創業者の豊田喜一郎が退陣しました。

これには組合側も動揺してしまって、希望退職では2000人が去っていきました。

 

「売るものが無くてはつぶれるしかない」という状況だったのですね。

引き継いだ石田退三社長の下、労働争議も収束して会社はなんとか生き延びようとしていました。

 

 

なんとここで”神風”が吹きます。

1950年(昭和25年、40才)6月、朝鮮戦争が勃発します。

豊田喜一郎が身を挺して退陣後の、わずか20日後だったのです。

 

米軍からのトラック1320台の競争入札、まるで飢えた獣の前に餌が落ちてきたように、この商戦で1000台を石田はくわえ込んだのでした。

おそるべき強運の石田退三でした。

なんと需要の半分はトヨタが手にしています。

 

このときに豊田英二は言いました。

「いかに多忙になっても、人は増やさずに残業と二交代で乗り切ろう」。

 

二度と人員整理の轍をふまずに、そのかわりに「生産方式の合理化」をとことん追求すると大見栄を切ったのでした。

これが朝鮮特需の神風でした。

 

 

生産方式ジャスト・イン・タイム・システム(JIT)

1938年(昭和13年、28才)当時、大陸での戦線拡大のころ、この時点で豊田喜一郎はいわゆる「ジャスト・イン・タイム・システム(JIT)」を実行しました。

「必要な部品を必要な時に必要なだけ調達せよ」

との豊田喜一郎の「無在庫思想」は大いに効果をもたらして、その先見性はすごいもので、これが後のトヨタの「カンバン方式」のルーツとなったのです。

 

もちろん、当初は協力工場や、現場の組み立て工の労苦は並大抵のものではなかったのです。

豊田英二や斉藤らは、若いながらに末端までの現場要員への指導教育に入っていたのです。

 

 

乗用車の夢、トヨペット・クラウン

1950年(昭和25年、40才)ごろからは経済復興と共にタクシー用車両の需要が起きていた。

他のメーカーは海外メーカーとの技術提携が相次いでいる中、トヨタは純国産の開発を表明していたのです。

 

1952年(昭和27年、42才)に急逝したトヨタ創業者の喜一郎が「すでに自主開発は当然」と指示していました。

ボディはプレス化によってコストダウンできるので、搭載するエンジンの開発に注力したのでした。

 

やがて1955年(昭和30年、45才)にトヨペット・クラウンが誕生しました。

時の政府の国民車構想にも乗っかって、やがて量産化されて海外にも輸出される基盤車両となったのでした。

 

まさか世界のトヨタとして、米ビッグ3に対して技術や生産、品質管理まで指導するようになるとは、あの豊田佐吉翁もびっくりしたことでしょう。

「どえりゃー、ええがや」とでも(?)。

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まとめ

破天荒なエピソードがない人物、つまり豊田英二の活躍話は書きづらいものです。

《勇者は黙して語らず》と評され、愚直にグループを磨き上げた人物なのですから。

 

世界に冠たる看板方式と豊田イズムDNAがトヨタの売り上げ20兆円とビックリするような世界企業のトヨタを築きあげたのです。

豊田英二は戦中戦後の倒産危機を乗り越えて、長年トヨタファミリーの夢であった乗用車の開発と大量輸出をビッグ3とせめぎあいながら成し遂げたのです。

 

その周りには尊敬する従兄弟であり、創業者と呼ばれる豊田喜一郎や、いっしょに中興の祖と言われて活躍した「やさしいおじさん」石田退三、また後継者となった豊田章一郎たちの努力と働きのおかげでもあったのですね。

 

トヨタは生産現場第一主義で、派手な活動もあまりせずに、ローカルの豊田市を拠点として、今の世界のトヨタを作り上げました。

たとえ泥臭い田舎の同族企業だとか、トヨタ生産方式を金科玉条にするブラック企業と言われても、むしろ誇りに思っていることでしょう。

 

中興の祖、豊田英二はトヨタグループではいまでも絶対的なカリスマ性を維持しています。

世の有名な目立ちたがりの経営者とはちがって、最後まで「不言実行」、「率先垂範」の人物だったのです。

 

少年時代から家が工場であり、この現場にいることそのことが大好きな経営者だったのです。

まさに《勇者は黙して語らず》がピッタリの人物でした。

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